2017年2月28日火曜日

 古池や蛙飛び込む水の音   芭蕉

 この句は誰もが知っているが、それはたいてい教科書に載ってたり、試験の時に覚えさせられたからで、この句のどこがいいのかわからないという人も多いことだろう。無理もない。三百年以上も前の「あるある」なんてそう簡単にわかってたまるものか。
 この句は一般的に、蛙の音に静寂を感じ、同時にそれが心の平静、いわば禅の境地を表すかのように言われている。それは、『奥の細道』の、これもまた有名な、

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声  芭蕉

の句にも言えることで、そこから芭蕉には常に、心頭滅却した禅僧のイメージがついて回る。
おそらくは芭蕉の弟子の一人、各務支考の解釈に行き当たるのであろう。しかし、近代にあっては、それ以上に正岡子規の影響力を否定できない。
 子規の解釈は、単にこの句が静寂を表すという解釈を受け継ぐだけではなく、それがそのまま作者の句作に対する態度の静寂であり、作為や技巧(掛詞、援護、比喩、暗示、象徴、観念、洒落、滑稽、等)も排したということと、心に一転の曇りもないということを結びつけるというものだった。それはまさしく近代俳句の理想であり、今日でも俳句や短歌に作為や技巧があると、「疵」があると言われる状況にある。
 しかし、それは正岡子規が書いた時期も違う三つの解釈をごちゃ混ぜにしてできたような通念だった。
 正岡子規は明治二十二年の『古池の吟』の中でこう言っている。

 「『古池や蛙飛び込む水の音』とは誰も知りたる蕉翁の句なるが、その意味を知る者は少し。余は六、七年前にある人の話を聞きしに、こはふかみの三文字を折句にせしものなり‥(略)‥余、この説を信じてなかなかわからぬものとして考へたることなかりき、しかるにこの春スペンサーの文体論を読みし時、minor imageを以て全体を現はす、即ち一部をあげて全体を現はし、あるはさみしくといはずして自らさみしきやうに見せるのが尤詩文の妙処なりといふに至て覚えず机をうって『古池や』の句の味を知りたるを喜べり。悟りて後に考へて見れば、格別むづかしき意味でもなく、ただ池の閑静なる処を閑の字も静もなくして現はしたるまでなり。」

 スペンサーと言う、当時としては最新の知識でこの句が解けたという子規の喜びは、大変よく伝わってくる。当時、子規はまだ二十三歳。最初の喀血があり、「子規」という業を思いついたのもこの年だった。
 この頃子規はまだ、俳句革新なんてことは考えてなかった。ただ、スペンサーと言う、当時としては最新の知識でこの句が解けたと喜び勇んだだけだったと思っていい。若者にはありがちなことだ。
 ただ、この最初の子規の解釈はその後も様々な形で踏襲されてゆく。

 「春深いころのひっそりとした昼ま、時おり、ボチャッと水面に音を立てて蛙が飛び込むと、一瞬静寂が破られ、すぐまたもとの静寂に帰る。」(『松尾芭蕉』宮本三郎、今栄蔵、一九六七、桜楓社)

というのもその一例だ。
 「ふかみ」の三文字を折句にしたという説は『誹風柳多留』という川柳点に見られるもので、

 蛙飛ぶ池はふかみの折句なり

のことを言うのだろう。俳論といえるようなものではないし、俗説の類と見ていい。当時の俳諧師匠たちが言ってたのではなく、たまたま聞きかじった説をいかにも有力な説であるかのように言ってみただけのことだろう。
 ただ、ひょっとしたらこの折句は意識されていたかもしれない。偶然であるにしても、芭蕉自身気づいてひそかにほくそ笑んでたかもしれない。
というのも、古池の句の発表された貞享三年(一六八六)の前後には、かなりの頻度で複雑な言葉遊びが試みられているからだ。
 たとえば貞享元年(一六八四)の『野ざらし紀行』の中の句、

   二月堂に籠りて
 水とりや氷の僧の沓の音

はどうだろうか。この句は「こもり」と「こおり」を掛けているのみならず、「水」「氷」「沓」という水のつく字を三つ並べている。

 秋風や藪も畠も不破の関

これも、「やぶる」も「はだける」も「破れず」という遊びを含んでいる。
 古池の句と同じ歳に発表された、

 明月や池をめぐりてよもすがら

の句も、一見無造作そうだが、よく見ると、

 めいけつや池をめくりてよもすから

の頭「めいけつ」のあとに「池」「め」という文字が並び、「めいけつ」が逆さまになっている。あたかも池に逆さまに映った月が揺らいでいるかのようだ。
 さらに、元禄二年(一六八九)、『奥の細道』の旅の句でも、決して言葉遊びが少ないとは言えない。

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 象潟や雨に西施がねぶの花
 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

の掛詞は言うまでもなく、

 行春や鳥啼魚の目は泪

の「目」と「泪」、

 夏山に足駄を拝む首途哉

の「足」と「首」、

 あつみ山や吹浦かけて夕涼

の「あつみ=暑」を「吹く」と「涼」となる、といった言葉遊びが目立つ。

 山寺や石にしみつく蝉の声

も「立石寺」の吟だし、同じ遊びは石山寺の、

 石山の石より白し秋の風

で行なわれている。「白」は五行説で秋を表す色であり、石の白さが縁となって「秋」を導き出している。
 こうした高い頻度で登場する言葉遊びは、決して貞門時代の悪弊などという言葉で済むものではない。俳諧は本来言葉遊びだし、芭蕉もひと通りの言葉遊びの可能性は試していただろう。
 復本一郎の『俳句を楽しむ』(一九九〇、雄山閣出版)に書かれている計算によると、『奥の細道』の五十句中十二句にこうした言葉遊びが見られるというが、目立たない微妙なものまで含めると、明らかにそれ以上になる。こうした句を得意とする芭蕉であれば、「ふかみ」を折句にするくらいのことはやったかもしれない。ただ、折句はあくまで隠し味のようなもので、別に「深み」ということを言いたかったわけではあるまい。句の本質ではなく、句の飾りの部分であろう。
 古池の句は実は「ふかみ」の折句だけではない。五七五の頭二文字を取ってゆけば「降る」「川」「水」と、水にまつわる語が三つ並んでいる。これは縁語と言っていいだろう。
 近代俳句だと原稿料の問題もあるのか、一句だけで発表することは稀で、十句連作だとか句集だとかいう形で発表されるのが普通だ。俳句誌の巻頭を飾るべく、毎月十句の連作をノルマにしている近代俳人と違って、かつての俳諧師の発句は一度の興行に一句詠めばよかった。それはあくまで興行の際の発句であり、特に蕉門の場合、撰集や紀行文に載せる発句はかなり厳密に吟味され、時間をかけて推敲され、完成されていった。
 芭蕉は決して無造作な句など詠んではいない。芭蕉の句は隅々まで計算され尽くしたものであり、だからこそ時代を超えるだけの力を持っている。それが一見無造作に見えるのは、技巧が完成されているからだ。それはちょうど『荘子』の「包丁解牛」のようなもので、技巧が身についてなければ、その試行錯誤のあとが仕上がりの際の表に現われてしまうが、真に技術を極めた包丁人の手にかかると、あたかもはじめから切られるべくして切れたかのように、包丁の跡が残らない。たとえば、

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

の句は、あたかも一瞬にして「はっ」と浮かんできたかのように見え、どこにどういう技法が使われたか解くのは困難だ。しかし、

 山寺や石にしみつく蝉の声

であれば、われわれは容易にその思考の跡をたどることができる。山寺の名は立石寺、その立石寺の石に、はかなく短い夏の命を鳴く蝉の声が数百年にわたって染み付いている。
 蝉は『徒然草』第七段に「夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし」とあり、中世の歌人は好んで蝉のはかなさをテーマとしてきたし、芭蕉も元禄三年(一六九〇)に、

 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

と詠んでいて、はかない命を象徴させている。多分に人類が終ることなく繰り返す数々の悲劇が、立石寺にそびえ立つ岩に染み付いているように感じられたのであろう。
 それをまず、「立石寺」と「石」の縁を「岩」に変えることによって目立たなくし、「しみつく」という直接的な言い回しも避け、、数々の悲劇を刻みながらも一見何ごともなさそうに見える岩の姿の幽玄さを表すべく、「閑かさや」の五文字が選ばれ、完成に至った。多分にこの時、王籍の、

 蝉噪(さわ)いで林逾(いよいよ)静かに
 鳥鳴いて山更に幽なり

の詩句を意識したのであろう。そして、この静かさを見出す前の段階に、

 さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ
 淋しさの岩にしみ込せみの声

という句がある。完成句を表面的に見れば、蝉の声に静けさというminor imageの方が目につくが、決してそれだけではない。
 古池の句で用いられた技巧が、単なるminor imageだという解釈も、若き子規には新鮮で感動できたかもしれないが、果たして芭蕉の時代の高度に洗練され、頂点にまで達していた複雑の技法からすれば、あまりに稚拙なものだった。
 古池の句もまたその場でふっと浮かんできてできた句ではない。
 復本一郎は『芭蕉古池伝説』(一九八八、大修館書店)の中で、古池の句の成立過程を考察している。それによると、この句の最も確実な初出は、貞享三年(一六八六)の三月下旬に公刊された西吟編の『庵桜』の、

 古池や蛙飛んだる水の音       桃青

であり、一ヵ月後の閏三月の『蛙合』に、

 古池や蛙飛び込む水の音

という形で現われることになる。ここから貞享三年春に古池の句が成立したという説が一般に定着している。
 しかし、『蛙合』が大勢の弟子達の蛙の句を持ち寄った句合せで、中には京都の去来の句も入っている。果たしてこの年の春に詠んだ句が一ヶ月も経たずに『蛙合』という形に編集され、出版されたかどうかという疑問が残ることになる。
 復本一郎は、やや疑問は残るものの、鈴木勝忠が貞享元年(一六八四)二月中旬と推定した書簡を掲げている。

 「先達而(せんだって)の山吹の句、上五文字、此度、句案(あんじ)かへ候間、別に認遣(したためつかは)し候。初のは反古に被成可被下(なされくださるべき)候。此度、其角行脚致し候。是又宜(よろしく)御世話頼(たのみ)入候。
 知足様                  芭蕉」

 この手紙を信用するなら、古池の句の完成は貞享元年春で、それならゆっくり『蛙合』を企画することもできたであろう。そして、この手紙では同時に、

 山吹や蛙飛び込む水の音

というっ原案があったことも裏づけられることになる。
 そこで出てくるのが、支考の『俳諧十論』にある、

 「天和の初ならん、武江の深川に隠遁して、古池や蛙飛び込む水の音、といへる幽玄の一句に自己の眼をひらきて、これより俳諧の一道はひろまりけるとぞ。」

や『葛の松原』にある、

 「弥生も名残をしき此にやありけむ。蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、蛙飛こむ水の音、といへる七五は得玉へりけり。晋子(榎本其角)が傍に侍りて、山吹といふ五文字を冠らしめむかと、およずけ侍るに、唯、古池とはさだまりぬ。」

だ。
 後者にはその後いろいろ尾鰭がついて、それこそ其角が「山吹や」と言ったら芭蕉に一喝されただとか、「古池や」と芭蕉に言われ、俳諧の極意を悟り泪を流しただとかいう話が流布したが、この芭蕉と其角の過ごしたその日のうちに「古池」と定まったとはどこにも書いていない。もし知足宛書簡が本物だとすれば、天和二年(一六八二)に芭蕉は「蛙飛び込む水の音」の下七五を得、一度は其角の助言を入れ「山吹や」としたものの、貞享元年春に「古池や」に改めた、という推定が可能になる。

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