明治二十二年の段階で、芭蕉の古池の句はminor imageの句で、閑寂といわずして閑寂を表した句だとした子規は、明治二十七年の『芭蕉雑談』で更に新たな展開を図る。つまり、この頃から盛んに説き始めた写生説によって解釈しなおそうとする。
ここでまず子規は、
「近時西洋流の学者は則ち曰く、古池波平かに一蛙躍って水に入るの音を聞く、句面一閑静の字を著けずして閑静の意言外に溢る‥‥略‥‥夫の西洋学者の言ふ処稍々庶幾からんか、然れども未だ此句を尽くさざるなる。」
と言っている。
もちろんこんな西洋学者が本当にいたかどうかは知らない。どう考えてもこれは明治二十二年の正岡子規自身のことであろう。
まあ、このあたりは子規一流のレトリックで、この句が閑静を表すという説すら初耳の読者は、それでもまだ「尽くさざる」という言葉に再度びっくりするという寸法だ。そして、その「尽くさざる」とは何かといった所で、子規は「写生説」を切り出す。
以下、子規が述べるのはあくまで子規自身の想像であり、当時の史料に何らかの根拠のある説ではない。
「芭蕉独り深川の草庵に在り、静かに世上流行の俳諧を思ふ。連歌陳腐に属して貞徳俳諧を興し、貞門亦陳腐に属して檀林更に新意匠を加ふ。されど檀林も亦一時の流行にして終に万世不易の者に非ず。是に於てか俳運亦一変して長句法を用ゐ漢語を雑へ、漸くにして貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)を脱せり。」
間違ってはいけないのは、これは子規の説であり、芭蕉がこんなことを言ったなんて記録は何もない。ただ、こうした俳諧史観は今日の俳人にも大きな影響を与えているのは確かだ。だから子規の説でありながら、芭蕉がこう言ったと言われれば容易に信じてしまうところがある。
松永貞徳は連歌が陳腐だから俳諧を興したのではなく、庶民向けに連歌入門のために、いわば句のつけ方、和歌連歌の基本的な技法、雅語の使い方などをわかりやすく学習するために考え出したものだった。それゆえに俗語の使用は一句に付き一語に制限され、雅語だけだと堅苦しいから俗語も交えるという程度のものだった。
これに対し宗因の檀林(談林)の俳諧は、連歌の式目をより緩やかに運用して庶民のリアルの生活の表現を開放していった。しかし宗因自身生涯連歌師だったし、俳諧は連歌の余興のようなもので、おそらくは能に対して狂言があるようなものとして捉えていたのではないかと思う。
「長句法を用ゐ漢語を雑へ」というのは『虚栗(みなしぐり)』の頃のいわゆる天和調のことをいうと思われるが、その前に『俳諧次韻』において、貞門談林の俗語は一句一語の制を打ち破って、漢詩調、謡曲調、芝居の台本やその他様々な文体のパロディーを試み、内容も古典のパロディーからシュールネタとでもいうような奇抜ものまでありとあらゆる実験を行っていたことを忘れてはならない。
天和の頃になると、木版による出版文化が急速に庶民の間にまで普及し、古典や漢籍などのわかりやすい解説書などが次々と出版されたのを受け、それを全面的に取り入れ、連歌の式目に字余りの制限のないことを逆手にとって、字余りの句を多く詠むようになっていった。これは蕉門に限らず当時の流行で、伊丹では鬼貫らが伊丹流長発句を関西ではやらせている時期でもあった。
「漸くにして貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)を脱せり。」と子規は言うが、これは大都市の都市文化の発展によって、笑いの質が大きく向上したと見たほうがいい。
室町時代後期の宗鑑編の『新撰犬筑波集』は、宗鑑をして俳諧の祖と言わしめるとおり、俳諧の源流ともいえるものだが、その内容はというとシモネタが多い。それに比べれば貞徳の俳諧は言葉遊びに留めることで品性を保とうとしたと思われる。
まあ、貞徳の発句はというと、
霞さへまだらにたつやとらの年 貞徳
雲は蛇呑みこむ月の蛙かな 同
花よりも団子やありて帰る雁 同
冬ごもり虫けらまでもあなかしこ 同
といった他愛のないものだったが。これが藤原惺窩に儒学を学び、古今伝授を受けた細川幽斎に和歌を学び、里村紹巴に連歌を学んだ、当時の第一級の文化人の句だというのが笑える。「松永」の名字も戦国武将の松永弾正の甥という家柄によるものだ。
談林の俳諧の滑稽は、それに対し上方、江戸で急速に形成されていった都市文化を背景とした、都会的な笑いの台頭でもあった。芭蕉もまたそれに感化された一人だった。そして芭蕉は生涯笑いを極めようとして、最終的にはあるあるネタに至ったと考えた方がいい。近代的な意味での笑いを排除したような生真面目で重苦しい文学を目指したわけではない。
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