今日も家の近くの桜はまだ開かなかった。
昨日は「初ざくら」がテーマだったが、今日は「姥桜」で行ってみようか。
「姥桜」は曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』に、
「姥桜 [羅山拾稿]この花、繁栄にして枝上葉なきが如し。老婆、多く歯落てなし。歯と葉と和訓相通ず、故に是を姥桜と云。」
とある。
『羅山拾稿』の引用らしいが、引用元となったこの本は不明で、要するにソースのはっきりしない情報だが、今日「姥桜」をネットで検索しても、大体判を押したように似たような説が載っている。
染井吉野がなかった頃は、桜というと山桜で、山桜は花とともに葉っぱも芽吹くので、葉(歯)のある桜になる。大島桜も八重桜も葉っぱが一緒に出る。葉の出ない姥桜というと、昔は江戸彼岸か寒緋桜のことだったのだろう。
今の日本の桜の主流となっている染井吉野は、姥桜の江戸彼岸と葉のある大島桜の雑種が交雑してできた単一の樹のクローンだと言われている。花が咲くときには葉が出ないので、これも姥桜に含まれる。
枝垂桜も江戸彼岸系のものが多く、やはり姥桜。
最近増えてきている河津桜は、寒緋桜と大島桜の自然交雑種だと推定されている。これも姥桜。
山桜が主流だった時代と違い、今では染井吉野という姥桜が主流になってしまったせいか、今では「姥桜」という言葉はほとんど老婆の比喩としてしか用いられなくなった。実際の桜の木を指して「姥桜」というには、そこらじゅう姥桜だらけだからだ。
姥桜の句というと、
姥桜さくや老後の思ひ出 芭蕉『佐夜中山集』
の句が検索に引っかかる。
「姥桜」という名称の由来が言葉遊びなのだから、姥桜の句も言葉遊びにならざるを得ない。姥だから老後のことが浮かんでくる。この句は芭蕉がまだ伊賀にいて「宗房」の名だった頃の句で、貞門時代の句だ。
蕉門の句で姥桜の句はなかなか見つからなかった。
とりあえず見つかったのは、
たのもしき子を置ちるや姥櫻 牧童『卯辰集』
小町讃
影うつせさそふ水あらば姥櫻 一空『庭竈集』
の二句だ。牧童は春雨の句のときに、
遍照の蓑さへもたじ春の雨 牧童『卯辰集』
の句を紹介している。
姥桜を読む場合、やはり老婆を意味する「姥」と掛けて詠むのが定石だろう。姥桜が散る頃にはようやく葉っぱも芽吹いてくる。葉と入れ替わりに散ってゆくその花の姿に、頼もしい子供を置いて散ってゆく母親の姿を読み取っている。
一空の句は、『卒塔婆小町』などの老いた小町を面影とした句で、影を映してみろと誘ってくる水があるなら、そこに姥桜の老いても猶美しい姿が映し出される。
ちなみに韓国の王桜「왕벚나무」(瀛州桜)はウィキペディアによるとエドヒガンとオオヤマザクラの種間雑種だという。他にも諸説あるがはっきりしないのは、純血の王桜が絶滅寸前で、様々な雑種交配した桜を一緒くたにして「王桜」と呼んでいるからだと思われる。いずれにせよ染井吉野同様、姥桜に属する。
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