芭蕉にとって談林俳諧が物足りないと感じたとしたら、それは俳諧があくまで連歌の従属物であって、俳諧が和歌、連歌、漢詩などと対等のものとみなされていないという不満だったと思う。
連歌と俳諧を二元的に考えるのではなく、『笈の小文』の冒頭部分に、
「およそ西行のわかに置(おけ)る、宗祇の連歌に置る、利休が茶に置る、雪舟が絵に置る、皆その貫道する物は一なるべし。」
とあるように、そして『三冊子』に、
「詩哥連俳はともに風雅也」
とあるように、俳諧を俗語による詩として漢詩や和歌や連歌と対等に考えるという点では、貞門や談林に飽き足らなくなったといえるかもしれない。しかし、決して言葉遊びや滑稽味を否定したわけではなかった。
このことは、蕉風確立以降の芭蕉の作品の中にもおびただしい数の言葉遊びがなされていることと、明らかに滑稽味を狙った作品がいくつも存在するという事実が証明するであろう。
ただ、子規はそうは考えず、『芭蕉雑談』の子規の空想はこう続く。
「第一に彼佶屈聱牙なる漢語を減じて成るべくやさしき国語を用ふべきなり。而して其国語は響き長くして意味少き故に、十七文字中に十分我所思を現はさんとせば、為し得るだけの無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。さて箇様にして作り得る句はいかなるべきかなどとつくづく思ひめぐらせる程に、脳中濛々大霧の起りたらんが如き心地に芭蕉は只々惘然として坐りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。」
当然ながら、これは子規自身の悩みだった。既に何千という俳句を作りながらも、その月並に悩み、新風を求め、模索していたのは子規自身だったし、貞門や化政調を模倣し、洒落や滑稽に興じていたが、それに飽き足らなくなったのも、子規自身だった。
芭蕉の時代なら、漢語と国語という対比ではなく、雅語と俗語の方が大きな問題だったはずだ。芭蕉は俗語を解放するとともに、雅語の文脈の中に大胆に漢語や俗語を取り込む「俳文」のスタイルを確立したことも重要だ。むしろ国語の中に漢語を取り入れたことのほうが重要だった。それは『奥の細道』の文章を見ても明らかで、
「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらヘ、去年(こぞ)の秋、江上(かうしょう)の破屋(はおく)に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立てる霞の空に白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず」
と和文と漢文とを混ぜた「和漢混淆文」だった。
発句でも、蕉風確立期以降も和漢混淆体を用い、和語だけで作る連歌発句とは明らかに異なっている。
八九間空で雨ふるやなぎかな 芭蕉
涅槃会や皺手合する数珠の音 同
紫陽花や藪を小庭の別座敷 同
秋ちかき心の寄や四畳半 同
これはいずれも元禄七年の最晩年の句だが、「八九間」「涅槃会」「数珠
「別座敷」「四畳半」などの言葉が用いられている。
子規が「国語」という言葉を用いているのにも注意する必要があるだろう。これは明治に入ってから生じた標準語制定への機運を受けたものと思われるからだ。雅語でも俗語でも和語でもなく「国語」なのは、国家が言語を管理し、規範言語としての標準語を定める動きを踏まえたものと見ていい。
子規の文章はさらにこう続く。
「妄想全く断ゆる其瞬間、窓外の古池に躍蛙の音あり。自らつぶやくともなく人の語るともなく『蛙飛びこむ水の音』といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。芭蕉は始めて夢の醒めたるが如く、暫く考へに傾けし首をもたげ上る時覚えず破顔微笑を漏らしぬ。」
「古池や」の上五が後からできたということや、この句が蕉風開眼の句であるということは各務支考の説を踏襲している。ただ、そこに「写生説」が付け加えられている。
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