2017年3月6日月曜日

 古池の句の続き。

 明治二十七年の時点では、まだ決して、純粋に事物の描写として古池の句を理解していたわけではなかった。それは単なる一個の写生句というよりは、写生の理念そのものを含蓄した句として、特別な意味を持たせていた。それゆえ、若い頃思いついたminor imageの説を決して否定しなかった。蛙の音はあくまで静寂を意味し、そこから連想される古池に生じた波紋は、鏡のように静止した水面を意味していた。そして、そこに同時に俳句もまた、こうした鏡のように、事物をありのままに写すべきであることが含蓄されていた。
 しかし、写生の理念をより徹底させるには、こうした新しい象徴も、またminor imageという一つの技巧も余計なものだったのであろう。明治三十一年の『古池の句の弁』では、その点を更に徹底させている。

 「古池の句の意義は一句の表面に現われたるだけの意義にして、復他に意義なる者なし。」

 「さればこの句の真価を知らんと欲せば、この句以前の俳諧史を知るに如かず、意義においては古池に蛙の飛び込む音を聞きたりといふ外、一毫も加ふべきものにあらず、もし一毫だもこれに加へなば、そは古池の句の真相に非ざるなり。明々白地、隠さず掩はず、一点の工夫を用ゐず、一字の曲折を成さざる処、この句の特色なり。豈他あらんや。」

 もはやここには静寂すらない。この句にはもはや、芭蕉を写生説の先駆者に仕立て上げ、その記念すべき第一号である他には何の意味もない。子規自身、もはやこの句は写生句であるという以外に興味を引くものではなかった。

 「余らもまた古池を以て芭蕉の佳句とは思はず、否、古池以外に多くの佳句あるを信ずるなり」

 高浜虚子もまた子規のこの説を引き継いで、『俳句はかく解しかく味う』の中でこう述べる。

 「実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである古池が庭に在ってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞こえるというだけの句である。」

 こうした解釈は他の芭蕉句へも拡大されていった。たとえば『仰臥漫録』の、

 「五月雨をあつめて早し最上川   芭蕉
 この句俳句を知らぬ内より大きな盛んな句のやうに思ふたので今日まで古今有数の句とばかり信じて居た。今日ふとこの句を思ひ出してつくづくと考へて見ると『あつめて』といふ語はたくみがあって甚だ面白くない。」

 「芭蕉の
 荒海や佐渡に横たふ天の川
といふ句はたくみもなく疵もなけれど明治のやうに複雑な世の中になってはこんな簡単な句にては承知すまじ。」

などのように、作品の背後にどういう情が込められていたかということは、決して問題になることはなかった。
 子規が近代の古池句解釈の方向を決定づけた点は、この句を蛙の持つ様々な伝統的なものから切断したという所にある。しかし、芭蕉の俳諧そのものがそうした伝統の決別という性格を持つと言うなら、明らかにそれは誤りだ。伝統と決別したのはあくまで子規やその後継者にほかならない。
 そして、こうした俳人や研究者が芭蕉句の「今日的な」意義を探そうとする限り、かすかな伝統との差異を拾い上げては拡大し、伝統と連続している部分は無視せざるをえなかった。
 たとえば白石悌三は『芭蕉』(一九八八、花神社)という本の中の「蛙─滑稽と新しみ─」の中で、古池の句が静寂を表わすという解釈をしりぞけ、断続的な水音に春の遅日の情を読み取ろうと試みている。
 しかし、この一見新しそうな解釈も、歌を詠み軍(いくさ)をする蛙という伝統に飽き足らなくなった芭蕉が、「即座の興」に基づくことにより、「伝統歌学の重圧から感受性を解き放ち、失われた叙情性を俳諧に復活し」、「蛙もまた観念から存在へとよみがえった」と言うあたり、子規の提起をそのままなぞっているだけと言える。
 いわば、遅日の情というのも、結局のところ伝統をしりぞけることによって得られる純粋な景色の描写から読み取り、つけ加えうる任意の新解釈の一つにすぎない。
 複本一郎も、『芭蕉古池伝説』という著書で古池の句だけで一冊の本を書くくらい資料をそろえ、いろいろな角度で論じているが、その中心はあくまで「従来の諸文芸の蛙の『声』の桎梏から脱却して、『音』を詠んだ」というもので、この音は閑寂を表すという解釈は子規の解釈の域を出ていない。
 しかし、問題は、どういう意味で「従来の漢詩、和歌、連歌の美意識にこだわらずに、対象を自由に『見とめ、聞とめ』る」と言っているかだ。一体古池の句の静寂は、山下一海が言うのと同様の、歌を詠まない蛙によって生じる静寂、単なる沈黙から来る静寂なのだろうか、それとも、声に託しきれない情を水音で表現した時の静寂の名だろうか。
 芭蕉は決して伝統を否定したり、古典の本意を軽視したような発言はしていない。ただそれを昔ながらの雅語によって表すのではなく、卑近な事象を俗語で言い表すことにより新味を出そうとしたにすぎない。滑稽な俗語が同時に見事に古典の風雅を表現し、俗語を雅語の領域にまで高め、土芳の『三冊子』「くろさうし」に「師のいはく、俳諧の益は俗語を正す也」とあるように、「正す」ことが重要だった。

 ならば、古池の句は本来どういう意味だったのか。確かに子規を批判するだけでなく、対案を示すことは重要だろう。
 古池の句に関しては、同時代の人による明確な解説があるわけではない。将来発見される可能性はあるが、今のところはない。
 手懸りの一つになるのは、土芳の『三冊子』「しろさうし」の、次の文章だろうか。

 「詩哥連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月のおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者の感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」

 まずここから探ってってみよう。
 詩哥連俳は、漢詩、和歌、連歌、俳諧のことで、これらがともに風雅だということは、芭蕉の『笈の小文』のなかにある、

 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一なり。」

と同様に考えていいだろう。いわば、

 「造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。」

ということにおいて等しいということだ。
 造化にしたがうということは、いわば朱子学の言葉を借りるなら、天地万物の理に従うということになる。理は天地万物の本来通るべき道であり、「人間は万物の霊也。」という儒教の思想は、人間だけがこの道を自覚する存在であることを言い表している。従って、造化に従うとは、自然の本来あるべき姿を自覚することによって、「夷狄を出、鳥獣を離れ」ることを意味する。

0 件のコメント:

コメントを投稿