東京では昨日染井吉野の開花宣言があったが、確かに都内の道を走っているとチラッと何か白いものは見える。まだ家の近くでは咲いていない。
そういえば俳諧の集を読んでいると「初ざくら」という季語がある。必ずしも花の句の並ぶ中で冒頭に出てくるわけではなく、案外最後の方に八重桜と並んでたりもする。
芭蕉七部集では『続猿蓑』のみ、春之部、花櫻の冒頭に登場する。
温石のあかるる夜半やはつ櫻 露沾『続猿蓑』
寝時分に又みむ月か初ざくら 其角『続猿蓑』
顔に似ぬほつ句も出よはつ櫻 芭蕉『続猿蓑』
温石(おんじゃく)はウィキペディアによれば、「平安時代末頃から江戸時代にかけて、石を温めて真綿や布などでくるみ懐中に入れて胸や腹などの暖を取るために用いた道具」だそうだ。懐炉のようでもあり、健康法としても用いられたようで、今でも「温石」で検索すると、その手のサイトがたくさん出てくる。今ではホットストーンと呼ぶようだ。
その温石がなくてももう十分だという暖かい夜に、ふと外を見ると桜が咲いていたということなのだろうか。
次の其角の句も夜の句だ。寝る前にもう一度月でも見ようかと思ったら桜が咲いているのに気づいたようだ。
芭蕉の句はこの並びだと、露沾や其角と比べて自分が年取ったことを自虐的に言っているように聞こえる。そんな芭蕉も二十一の頃は、
姥桜さくや老後の思ひ出(いで) 芭蕉『佐夜中山集』
と詠んでいる。歳は取りたくないね。
芭蕉には、
初桜折りしもけふは能(よき)日なり 芭蕉
の句もある。
いらいらと日和おもふや初ざくら 井水『皮籠摺』
「いらいら」は古語辞典を見ると、「心が騒いで落ち着かないさま」とある。今日の「いらっとする」感覚とは多少違うのだろう。むしろ花見への期待から落ち着かないという感じか。
すなをなる空になしてやはつ桜 柴白『ばせをだらひ』
「すなを」は「すなほ(素直)」のことか。やはり良い日和だといい。まあ、雨の日でも、
雨の日や人なき家のはつ桜 青曲『杜撰集』
これは空き家に取り残された桜が花をつけているということか。「月やあらぬ」系の句と見ていいだろう。
初ざくらそろはぬ人の歩みかな 松花『桃舐集』
桜が咲いいるのが目に止まっても、引き寄せられるように見入ってしまう人もいれば、忙しさに足早に通り過ぎる人もいる。反応は様々だ。
はつ杓子とって初客はつ桜 朱林『ばせをだらひ』
桜が咲くと急にお客さんが増えたりする。特にお寺とか花の名所だったりすると、花見に来た人を泊めたりもする。あまり長居すると「下下の下の客」と言われたりする。
有増の願は盡ず初ざくら 此筋『陸奥鵆』
「有増(あらまし)」は本来はこうあったらいいなという意味で、今の言葉だと「夢」と言ってもいいかもしれない。昔は「夢」という言葉は良い夢ばかりではなく悪夢も含めたもので、今日のように「将来の夢」みたいな用い方はしなかった。将来の夢は「あらまし」だった。
そういうわけで、桜が咲いて夢は尽きることがない、ということで締めにしておきましょう。
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