朱子学の「理」の概念はかつてはある程度感覚的に理解できたのではないかと思う。今ならまだ「誠」という言葉の方がなじみがあるだろう。「理」に関してはともすると西洋の理性( reason)と一緒くたにされやすい。むしろ訓で読んで「みち」と言った方がいいのかもしれない。
「みち」というと「道」という字を当てるほうが普通だし、朱子学の「理」も基本的には「道」のことを言うといっていいと思う。「道」というのが道家の言葉で、仏教でも「仏道」というので、それと区別するために「理」と読んでいる節がある。基本的には同じものを違う名前で言い表したといっていいと思う。
洋の東西を問わず、かつては物質的な世界の背後に真の世界が隠されているという考え方が普通だった。仏教でも形あるものは色相で、色相はそれこそ色即是空だった。その背後にある仏の世界、実相の世界が重要だった。
西洋でもプラトンが眼に見える現象の世界は洞窟のイドラ(偶像:アイドル)であり、イデア(アイデア)の影にすぎなかった。アリストテレスも本質は実存に先立つとし、現象の背後に真の世界があると考えていた。
この背後にある真の世界に関して、きわめて合理的な形で批判したのが18世紀後半に活躍したドイツの哲学者、イマヌエル・カントだった。
カントはこうした現象の背後にある世界を「物自体(Ding an sich)と呼び、理性の生み出す幻想(先見的仮象)として退けた。しかしそれは科学的認識の場所から退けただけで、倫理的要請として結局は肯定することになる。例えばキリスト教の全知全能であり万物を創造した神の存在に関しては、証明しようとするとアンチノミーに陥るしかないが、倫理的には必要なものとされた。
このあたりに世界の背後に真の世界を仮定する理由が見えてくるようにおもえる。つまりわれわれの生活の中で何が正しくて何が間違っているかは、1足す1が2であったり、水素を燃やせば水が出来るみたいに明確に説明することが出来ない。そこにはいろいろな考え方の人がいるし、実際に良いと思ってやったことが最悪の結果を引き起こすこともある。
明確に答を出すことの出来ない問題に対して、何らかの答が欲しい。その答を求める気持ちが、理屈では割り切れない何かを常に求めてしまう。そこに、現象からは説明できない真理が存在すると人は考える。
ただ、それが正しいかどうかは検証できない。それでも必要なものとして一つの民族、社会から要請される真理、それが「物自体」だったのではないかと思う。
それゆえ、この背後にある真の世界というのは文化によってその表れ方が異なってくる。一神教の文化では全知全能の神がその中心を占める。これに対し日本を含む東アジアの多神教の文化では、「道(理)」という概念を中心として構成されることになる。
多神教的な世界では、宇宙は混沌から生まれる。『古事記』にも、
「臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。」
とある。武田祐吉訳によると、
「わたくし安萬侶(やすまろ)が申しあげます。宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。」
となる。
中国では陰陽思想と五行思想が融合し、混沌が陰と陽に別れ五行を生じそれが乾坤を生む過程が体系化されてゆくことになる。宋学も基本的にその成果を引き継いでいる。
現実世界は常に混沌としていて、陰と陽のような相反するものが常に互いに交錯しぶつかり合っている。それが様々な事象を生み出し、この世界の多様性を生み出している。そして、人智を超えたこうした陰と陽との測り知れない動きを「神」と呼んだ。『易経』の「陰陽不測これを神という。」がわれわれの多神教世界の神概念の基礎になっている。つまり理屈で説明できないものはすべて神なのである。今日でも「神」という言葉は、スポーツでもアニメでも理屈抜きに感動できるものを表すのに用いられている。
こうした多種多様な混沌としたものに秩序を与えているのが「道」という概念になる。それは文字通り道路のイメージからきている。道は老若男女、貴賎を問わず、民族の宗教も異なる多種多様な人々が行きかう。騒々しく、時には罵声が飛び交う中を、人々はそれでも同じ道を通るように、天地万物も多種多様で混沌としたものでありながらも、そこには自ずと道がある。人間社会のルールもそのようにあるべきだというのが、多神教世界の理想であり、倫理的要請だった。
西洋のように唯独りの造物主の作った唯一のルールに従うというのではない。混沌とした中に自ずと現れるルール、それが尊重された。
今日でも西洋的な価値観の人たちは、口では多様性の重要さを説くものの、その多様性というのはあくまでも肉体の多様性(人種、ジェンダー、障害の有無、等)であり、多様な肉体を持つものに同一の精神を持つことを強いている。民族固有の精神や価値観の多様性を求める者は、かえってレイシスト呼ばわりされることになる。
また、西洋では宇宙は唯一の神の創造したものとして、明確な始まりが規定されていて、やがて最後の審判を経て神の国で永遠の命を手にすることで終わる。マルクス主義もまた最後の審判の代わりに社会主義革命を最終的な戦いとし、そのあとに共産主義のユートピアが訪れるとしている。
これに対し、東アジアの多神教世界では宇宙の始まりを仮定する必要はなかった。天地は無始無終、ただ四季のような永遠の循環があるだけだった。そして人の一生もこの四季の循環になぞられられ、そこに四季の心が語られてきた。それが『笈の小文』の「造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。」であり、それを知ることが「夷狄を出、鳥獣を離れ」ることだった。なぜならば、それがまさに「道(理)」だからだ。そして、それこそが「俳諧の誠」だからだ。
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