2020年8月10日月曜日

 今日も暑い一日だった。それでは「梵灯庵道の記」の続き。

 和歌の方は『山家集』に次の前書きとともに収録されている。

   東國修行の時、ある山寺にしばらく侍りて
 山高み岩ねをしむる柴の戸に
     しばしもさらば世をのがればや
                西行法師

 さて、梵灯の乞食行脚の旅は続く。

 「か様にただ心のままに乞食し侍し程に、眞の修行をしらず、或時は深山に入て居を卜に、青嵐木ずゑを拂て頻に暁の夢をやぶり、流水渓を廻て遥に漲れども、流に嗽人もなし。かやうのしづかなる處にも、眞の心ざしなければとどまりがたき浮世のならひ、愚なる身のはかなさも、今更おもひしられて、月日を送侍りき。」

 「眞の修行をしらず」とあるから、例の山寺に滞在はしたものの、探し求めているものはなかったようだ。
 「或時は深山に入て居を卜(しむる)に」と山奥に草庵を結んだり、これは昔はよくあったことなのだろう。江戸時代でも芭蕉が雲岸寺の仏頂和尚の「五尺にたらぬ草の庵」の跡を訪ねている。今ならテントを張ってキャンプするような感覚で、寝るためだけの簡単な庵を建てることは、こうした行脚の僧の間では普通に行われていたのかもしれない。「居を卜(しむる)」は「卜居」という言葉もあるように、居を定めること。
 「青嵐(せいらん)」は新緑の青葉を吹く夏の強風で、才麿の『椎の葉』の「立出て」の巻二十一句目に、

   麻の中出て気の広う成
 霍乱を吹だまされし青嵐(あおあらし) 才麿

という句がある。
 「流水渓を廻て遥に漲れども、流に嗽人もなし」は渓流の水はふんだんにあっても、誰も飲む人はいないということで、芭蕉の『野ざらし紀行』の「とくとくの清水」ほどわずかな水ではないが、

 とくとくと落つる岩間の苔清水
   くみほすほどもなきすまひかな
              伝西行法師

の「くみほすほどもなきすまひ」の心は共通している。
 こうしたところに草庵を結んでも、やはり留まることができないのは「浮世のならひ、愚なる身のはかなさ」としながらも、旅を続けることになる。それは連歌への思いなのか、それとも旅の魔力なのか。それとも「乞食行脚」とはいうものの、西行が勧進僧だったように、何らかの使命を担った旅だったのか。
 そしていつしかとある海浜をさすらうことになる。

 「或時は海邊に出て行脚し侍に、あらき浪舷をこえて、みちるしほここもと也けりとさはがしく、かの源氏の物がたりおもひよそらへて、枕を峙たるに、海のおもてはそこはかとなきに、月はただきらきらとみえて、暁出るふねどもの、いかりをあげ、ともづなをとく人のをとなゐ、まことにいそがはしげなり。
 さて「思々に漕別行梶音も猶かすかなるに、たく火のかげはほのぼのとみえて、うきぬしづみぬ遠ざかり侍に、やうやう興津しら浪よこ雲も一にあけわたりて、遠からぬすざきの松風、うきねの鳥の立つづく羽音、いづれも旅泊の夢をおどろかすかとぞおぼえし。もしほをたれ磯菜をつむ海士の子どものおもひおもひに囀る聲どもいとおかし。」

 この時代は丸木舟ではなく、底の平らな構造船の技術が確立され、遣明船などの大型船も作られていた。ただ、帆はまだ木綿ではなく筵だったという。海岸伝いに進む小型の貨物船が物流を支え、こうした船に便乗することもあったのだろう。
 日本海の夜の荒波で、しばしば浪が船縁を越える中、『源氏物語』の須磨から明石へ行く船旅を思い起こしたりもしたのだろう。
 やがて夜が明ける頃には静かな内海に入り、松風に水鳥に海藻を摘む子供たちの声を聞こえてくる。

 「海に望て仏閣あり、又社壇あり。この所をばなにといふぞと問侍に、きさがたとなん申侍と答。さて其霊場に詣てみるに、僧坊など甍をならべたるが、築地もくづれ門も傾などして、星霜いくひさしかとおぼゆ。白洲に鳥居あり。はるばると歩過て神殿を拝奉るに、扉に書たる哥あり。
 松嶋やをじまの磯もなにならず
     ただきさがたの秋のよの月
 西行法師と書たりしぞ、やさしくもあはれにも覚えし。」

 穏やかな内海は天然の港で、物流の拠点でもあったのだろう。その内海に面してまず目に入ってきたのが仏閣と神社で、ここはどこかと聞くと「象潟」という答えが返ってくる。僧坊の甍が並んでいるところから、それなりの大寺院だったのだろう。ただ、築地は崩れ、門も傾き、昔の栄華には及ばなかったようだ。
 仏閣は神功皇后の伝説のある皇后山干満珠寺で、内海への入り口の所で船を下りたとすると、南北両側に内海と外海を隔てる半島があってそこに僧坊や何かが並び、北西の方に島があって、そこに干満珠寺があった。蚶方神社も併設されていたようだ。おそらく島へ向かって白洲になっていて、そこに鳥居があったのだろう。
 神殿の扉に和歌が書きつけられていた。西行真蹟かどうかはわからない。
 和歌は『山家集』にある。

   遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて
 松島や雄島の磯も何ならず
     ただきさがたの秋の夜の月
               西行法師

 内海には他にもたくさんの小さな島が浮かび、波に洗われることのない穏やかな景色を形作っていて、外海の浪に洗われた松島のような荒々しさはない。
 象潟は元禄二年(一六八九年)芭蕉も『奥の細道』で訪れていて、「俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」と記している。
 その象潟も文化元年(一八〇四年)の地震で二十五メートルも隆起して、かつての内海は見る影もなくなり、やがて田んぼになった。
 瀧の山と象潟で西行法師の和歌にめぐり合えた後も旅は続く。

 「かやうにいづくともなく行脚し侍事十餘年。其後出羽国に山居し侍しに、其所の人草堂を一宇おもひ立事あり。もしさやうの故實有ば、とりたててたびなむやといふに、あなおもひよらずや、努々さやうの才覚なきよし返答し侍しを、仏法興隆は御身に帯してしかるべき事なりと、再三申侍し程に、心ならず一両年は彼山中にぞ逗留し侍し。今光明寺是也」

 明徳四年(一三九三年)に出家して行脚生活に入ってから十余年ということで一四〇三年以降のことであろう。
 金子金次郎の『連歌師と紀行』(一九九〇、桜風社)の解説では、

 「最上家の菩提寺の光明寺(時宗)ではなく、禅宗の光明寺である。惟肖得厳が梵灯伝で、『東羽陽に遊び、檀護の光明を開山するに際会し』と語るものである。」

とある。
 時宗の方の光明寺も開山の時期が近いために紛らわしい。「山形県の町並みと歴史建築」というサイトによると、時宗の方は、

 「光明寺は山形県山形市七日町5丁目に境内を構えている時宗の寺院です。光明寺の創建は永和元年(1375)、最上家の祖となった斯波兼頼が居城である山形城の城内に草庵を設けたのが始まりと伝えられています。伝承によると応安6年(1373)、領内の視察中に漆山の念仏堂に立ち寄ると、たまたま巡錫に訪れていた遊行10代上人元愚大和尚と出会い教化を受け、山形城に上人を招くと城内で出家し其阿覚就と号するようになったと伝えられています。
 康暦元年(1379)に兼頼が死去すると草庵に葬られ、跡を継いだ2代直家が寺院として整備し、兼頼の戒名『光明寺殿成覚就公大居士』に因み寺号を光明寺と名付けました。以来、歴代最上家から庇護され寺運が隆盛しました。」

とある。
 時期が二十年くらいずれるが、同時期に山形市のそう離れてないところに二つの光明寺が創建されたことになる。
 禅宗の方の光明寺は金子金次郎によると『扶桑五山記・二』に「光明寺、出羽州、東山、開山在中(中滝)禾上」とあり、今の山形市大字上東山・下東山のあたりの山中と推定している。立石寺と瀧の山の中間のやや立石寺寄りになる。

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