さて、秋になり昨夜は北の空が雷鳴もなく光って見えた。夕立は夏、稲妻は秋ということで、稲妻や夜に現る雲の崖。
夜中に雨が降ったらしい。今日は朝から曇り。昼前から雨になって午後には上がる。
それでは秋の俳諧ということで、まだ旅気分を残しながら、芭蕉の『奥の細道』の旅の途中、金沢での半歌仙を見てみよう。曾良の『旅日記』七月二十日のところにこうある。
「廿日 快晴。庵ニテ一泉饗。俳、一折有テ、夕方、野畑ニ遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子ノ刻ニ成。」
天気は良かったが残暑厳しい頃だ。一泉は金沢の人で犀川の畔に松玄庵を構えていたという。暑い中を一折、つまり初の懐紙の表裏のみを巻いた。半歌仙とはいえ、芭蕉を含め十三人、北枝、乙州等も参加したにぎやかな興行だった。夕方には野畑を散歩し、夜食を食べてから解散したが、子の刻というから真夜中だった。
発句は、
少幻菴にて
残暑暫手毎にれうれ瓜茄子 芭蕉
で、『奥の細道』では、
ある草庵にいざなはれ
秋涼し手毎にむけや瓜茄子 芭蕉
に改められている。
十五日に芭蕉は加賀の一笑の死を聞かされる。一笑は元禄二年刊の『阿羅野』にその名が見られるが津島の一笑もいるため、紛らわしい。加賀と明示されている句は、
元日は明すましたるかすみ哉 一笑
いそがしや野分の空の夜這星 同
火とぼして幾日になりぬ冬椿 同
齋に来て庵一日の清水哉 同
の四句ある。元禄五年刊句空編の『北の山』には、亡人の句として、
珍しき日よりにとをる枯野哉 一笑
の句が収められている。三十五歳(数えで三十六)でまだこれからというときに亡くなった一笑を惜しみ、折からの初盆に一笑の墓に参り、七月二十二日の追善会で、
塚も動け我泣声は秋の風 芭蕉
の句を詠む。誇張なしの号泣だったのだろう。
そういう事情でお盆という季節柄もあって、興行もまた追善興行にならざるを得なかった。
瓜や茄子は故人へのお供え物で、精霊棚にみんなそれぞれ皮をむいて故人に供え、故人と一緒に食べましょうということだろう。キュウリやナスで馬を作るようになったのは多分もっと時代の下った後のことだろう。
実際には送り火も過ぎて精霊棚はなかっただろう。それでも気持ちとして今日は故人とともにこの興行を行いましょうという意味だろう。
「れうれ」は料理(れうり)を「料(れう)る」と動詞化した命令形で、名詞の動詞化は今日でも色々見られる。昔筆者が書いた『奥の細道─道祖神の旅─』には「メモれ、コピれ、テプれ」なんて書いたが、さすがに今となっては古い。八十年代のビートきよしのネタだったか。「みんなメモれ、コピれ」はスチャダラパーの『今夜はブギーバック』にもあるから、九十年代くらいまではよく用いられていた。さすがにカセットテープの時代は終わっていたか「テプれ」はないが。
まだ残暑の厳しい折だが、みんな一笑さんに手毎に瓜茄子を剥いてあげましょう、というこの発句に、亭主の一泉さんはこう和す。
残暑暫手毎にれうれ瓜茄子
みじかさまたで秋の日の影 一泉
秋の日はまだそんなに短くもなってなく、まだまだ残暑が厳しいというの表向きの意味だが、「みじかさまたで」には若くして世を去った一笑への追善が含まれている。秋の日の短くなるのを待たずに逝ってしまった故人の影が偲ばれます、というのがもう一つの意味になる。
第三。
みじかさまたで秋の日の影
月よりも行野の末に馬次て 左任
秋で前句に天象もあるから、ここは月を出すしかない。
秋の日の影も短さを待たずに沈んでゆき、それと入れ替わるかのように月が登れば、自らの旅路も行野の末で馬を乗り換えることになる。
四句目。
月よりも行野の末に馬次て
透間きびしき村の生垣 丿松
「丿」は「べつ」と読む。右から左へ戻るという意味で、「丿乀(へつぽつ)」だと船が左右に揺れる様だという。丿松は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注に、一笑の兄とある。
馬を乗り次いで旅をしていると、やけに生垣の立派で厳めしい村に着く。これでは月が見えないのでは。
五句目。
透間きびしき村の生垣
鍬鍛冶の門をならべて槌の音 竹意
やけに生垣が立派だと思ったら、鍬鍛冶が何軒も軒を並べている。燕三条のように代官が政策的に鍛冶職人を集め、領民の副業として推奨していたのだろう。燕三条は釘鍛冶を集めたが、ここでは鍬鍛冶にしている。
六句目。
鍬鍛冶の門をならべて槌の音
小桶の清水むすぶ明くれ 語子
鍛冶屋がたくさんあれば、それだけ大量の水を消費する。
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