お盆休みも今日で終わり。
お盆休みということもあってコロナの新規感染者数は減っている。ただ重症者数と死者数はじわじわと増えていて、四月の半ばくらいのレベルになってきている。
休み明けで、今のところ何の対策もなく平常通りの日常が始まるとすれば、また上昇に転じる。九月が怖い。そして涼しくなればインフルエンザとのダブルがまた怖い。正しく恐れることが大事だ。
それでは「舞都遲登理」の続き。
「小名濱ヨリ二里來て湯本アリ。山は權現堂、麓は町家、温泉數五十三、家々の内に有。勝手能諸事自由にて、近國より旅人不絶、此所半里來て白水と云所アリ。海道ヨリ十六丁、左へ入、阿彌陀堂、則平泉光堂の寫し也。秀衡妹徳尼御前建立、奥院、弘法大師、尤女人禁制。
岩城山・千手觀音・彌生山・麝香石・此邊也。此外舊跡ありといへども、少時の滞留見殘し侍る。」(舞都遲登理)
藤原川に沿って登ってゆくと湯本に出る。山は観音山で権現堂は神仏分離で今は温泉神社になっているのだろう。麓に町があって温泉宿が五十三軒とかなり賑わっていた。
現代ではここに「さはこの湯公衆浴場」があるが、飯坂温泉を訪れた西行法師が、
あかずして別れし人のすむ里は
左波子(さばこ)の見ゆる山の彼方か
西行法師
と呼んだことから「さばこの湯」という歌枕になったのを、例の磐城平の殿様が領内に持ってきたため、ここも「さばこの湯」と呼ばれていた。
飯坂温泉は芭蕉も『奥の細道』の旅で訪れているのだが、名前が飯塚に変えられて、旅の苦しさを語る一場面として用いられてしまった。
さらに北へ行くと白水という所がある。白水阿弥陀堂がある。永暦元年(一一六〇年)奥州三代の三代藤原秀衡の妹徳姫(徳尼)によって開かれた。ウィキペディアに、
「阿弥陀堂は方三間(正面・側面とも柱が4本立ち、柱間が3間となる)の単層宝形造で屋根はとち葺。堂内は内陣の天井や長押、来迎壁(本尊背後の壁)などが絵画で荘厳されていたが、現在は一部に痕跡を残すのみである。内陣の須弥壇上には阿弥陀如来像を中心に、両脇侍の観音菩薩像と勢至菩薩像、ならびに二天像(持国天像、多聞天像)の5体の仏像が安置されている。東北地方に現存する平安時代の建築は、岩手県平泉町の中尊寺金色堂、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、当堂の3棟のみである。」
とある。奥院とあるのは真言宗智山派の願成寺のことか。
岩城山も磐城平の殿さまがあの弘前の岩木山に見立てたもので、今は石森山になっている。白水阿弥陀堂の北東にある。榧の大木を切って千手観音を彫り、開山したと伝えられている。彌生山・麝香石もあったようだが、桃隣も多分麓から眺めただけで見て確認はしてない。
「城下を立て三坂村へ八里、行々て奥道日和田ヘ出ル。此所四丁行て道端、右の方に淺香山。南都若艸山の俤有。名有山とは見えたり。巓に少キ榎三本有。往來貴賤登ルと見えて徑アリ。梺ヨリ四十三間、梺ノ廻リ貳百六十八間。
〇五月女に土器投ん淺香山」(舞都遲登理)
石森山の南側には磐城平城があり城下町になっている。これが磐城平の殿様、内藤家の居城だ。三坂村はそれより北西の山の中へ入った方で今は三和町という地名になっている。三坂城跡がある。そこを越えてゆくとやがて仙台道の日和田宿に出る。今の郡山市で東北本線に日和田駅がある。大体今の国道49号線の前身となる道ではなかったかと思う。
その少し先右側に安積山公園がある。今は公園だが、昔は奈良の若草山のような風情だったのだろう。
五月女に土器投ん淺香山 桃隣
「土器」は「かわらけ」と読む。ウィキペディアには、
「かわらけ投げ(かわらけなげ、土器投げ、瓦投げ)は、厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土器(かわらけ)の酒杯や皿を投げる遊びである。」
とある。
小高い浅香山に登れば、「かわらけ投げ」をしてみたくなる。
浅香山の麓はかつて浅香沼という巨大な沼があったというが、芭蕉や桃隣が来た頃には田んぼになってしまっていた。そのためかわらけ投げは外の五月女に向かって投げることになる。
「此山ヨリ未申ノ方、山際に帷子と云村に、采女塚、山ノ井も此邊、賤の根に葎おほひて底も見えわかず。
〇山の井を覗けば答ふ藪蚊哉」
淺香の沼は田畠となり、かつみ草・花蔣、いづれともしれず、只あやめなりといひ、眞菰成といひ、説々おほし。菖蒲池と云は此所にあり。」(舞都遲登理)
浅香山公園から南西の方角、磐越西線や東北自動車道を越えた向こう側の片平町に山の井公園と采女神社がある。ウィキペディアには、
「我が身を犠牲にして地方民の困窮を救った采女伝説の主人公、春姫の霊を慰めるため、1956年(昭和31年)4月に片平村教育委員会、婦人会、傷痍軍人会、青年団が発起として、采女神社建設委員会が組織された。村内外有志400名余より寄付金約30万円を集め、1957年(昭和32年)5月1日この神社が完成した。建立場所である山ノ井農村公園には、春姫が亡き恋人を追って身を投げたと伝わる「山ノ井清水」や、「采女塚」がある。祭神は王宮伊豆神社より分祀された。」
とある。
安積香山影さへ見ゆる山の井の
浅き心を吾が思はなくに
よみ人知らず(万葉集巻十四)
という歌で知られていて、さらに俳諧師の間では季吟編の『山之井』のタイトルでも知られていた。芭蕉の宗房時代の句は同じ季吟編の『増山の井』に入集している。
この頃の山の井は葎茂る中に埋もれて水もあるかないかわからない状態だった。そこで一句。
山の井を覗けば答ふ藪蚊哉 桃隣
山の井は藪蚊の棲家だった。
浅香山の周りにはかつて浅香沼という大きな沼があったが、今は五月女が田植えをしていると、前にも書いたが、すっかり田畠となり、かつみ草・花蔣(はなかつみ)のことはわからなかった。
『奥の細道』にも、
「等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れてあさか山有あり。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやや近うなれば、『いづれの草を花かつみとは云ぞ』と、人々に尋侍ども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端はにかかりぬ。」
とある。
ただ、桃隣は菖蒲池があるとは言っても「沼多し」とは言ってない。曾良の『旅日記』には、
「町はづれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱リ塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いずれの谷にも田有。 いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、ふしん也。」
とある。これが一番正確なところだろう。なお、山の井が本物かどうか疑っている。
花かつみは、
みちのくのあさかのぬまの花かつみ
かつ見る人にこひやわたらむ
よみ人知らず(古今集)
の歌で知られているが、古来謎の花とされていて、ウィキペディアによれば、能因は真菰と言い、前田利益はカキツバタだと言ったという。
明治九年(一八七七年)の明治天皇の巡幸の際、ヒメシャガが花かつみとして叡覧に供された。まあ、天皇陛下が偽物を見たとするわけにもいかないので、今日ではヒメシャガということにしておくのがいいだろう。
「二本松城下にさしかかり、龜が井、町より半里、阿武隈の川端に、彼黑塚有。邊は田畑也。此あたりをさして安達原と云。
〇塚ばかり今も籠るか麥畠」(舞都遲登理)
亀が井は今の二本松駅の近くの亀谷であろう。仙台道はここで昔の街道によくある枡形になっていて阿武隈川とは反対の方向に亀谷坂を登ることになる。ここからしばらく仙台道は阿武隈川から離れてしまうので、ここで右に入りというか、おそらく街道が左に折れるところを直進し、阿武隈川の方へ降りてゆく。今だと橋を渡った所に黒塚がある。
この黒塚については、『奥の細道』は
「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福嶋に宿る。」
とだけある。岩屋は塚の近くの観世寺にある。鬼婆がここに籠ったという伝承がある。二本松市観光連盟のホームページには、
「昔、京都の公卿屋敷に「岩手」という名の乳母がいて、姫を手塩にかけて育てていました。その姫が重い病気にかかったので易者にきいてみると「妊婦の生き肝をのませれば治る」ということでした。そこで岩手は生き肝を求めて旅に出て、安達ケ原の岩屋まで足をのばしました。
木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、岩手が住まいにしていた岩屋に、生駒之助・恋衣(こいぎぬ)と名のる旅の若夫婦が宿を求めてきました。その夜ふけ、恋衣が急に産気づき、生駒之助は産婆を探しに外に走りました。 この時とばかりに岩手は出刃包丁をふるい、苦しむ恋衣の腹を割き生き肝を取りましたが、恋衣は苦しい息の下から「幼い時京都で別れた母を探して旅をしてきたのに、とうとう会えなかった・・・」と語り息をひきとりました。ふとみると、恋衣はお守り袋を携えていました。それは見覚えのあるお守り袋でした。なんと、恋衣は昔別れた岩手の娘だったのです。気付いた岩手はあまりの驚きに気が狂い鬼と化しました。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」として広く知れわたりました。」
とある。妊婦の生き胆は今の中国だったら法輪功から簡単に手に入りそうなものだが。
塚ばかり今も籠るか麥畠 桃隣
塚は当時麦畑に埋もれていたようだ。
「福嶋より山口村へ一里、此所より阿武隈川の渡しを越、山のさしかかり、谷間に文字摺の石有。石の寸尺は風土記に委見えたり。いつの比か岨より轉落て、今は文字の方下に成、石の裏を見る。扇にて尺をとるに、長さ一丈五寸、幅七尺余、檜の丸太をもて圍ひ、脇よりの目印に杉二本植、傍の小山に道祖神安置ス。右の山口村へ戻り、海道へ出る。行戻二十丁有。
〇文字摺の石の幅知ル扇哉」(舞都遲登理)
『奥の細道』には、
「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋たづねて忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に、石半土に埋てあり。里の童部の来たりて教ける、『昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして此石を試侍るをにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり』と云。さもあるべき事にや。
早苗とる手もとや昔しのぶ摺」
とある。これではいかにもぞんざいに扱われてきたような印象を受ける。
曾良の『旅日記』には、
「一 二日 福嶋ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラベ(五十辺)村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七、八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七、八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ(文字摺)石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六、七本有。」
「柵フリテ有」は桃隣の「檜の丸太をもて圍ひ」と一致するが、杉二本は杉桧六、七本に増えていて、道祖神は観音堂になっている。まあ、一応史跡として保存されていたようだ。
五十辺村はウィキペディアに、
「特に五十辺と呼ばれる範囲は、国道4号(奥州街道)、国道115号(中村街道)、阿武隈川、松川に囲まれたエリアを指す。」
とある。仙台道を行く場合、今の競馬場の所を過ぎ、国道115号を越え、松川を渡らないあたりが五十辺村になる。今なら国道115号の文字摺橋で阿武隈川を越える所だが、昔はこのあたりに渡し船があったのだろう。川の反対側には岡部という地名が残っている。
文字摺石は今は普門院(文知摺観音)の中にあり、寺院の庭園の中にある。福島民友新聞のホームページには、
「文知摺石は縦横約5メートル、高さ約2・5メートルの火成岩。地中に埋まっていたが、1885(明治18)年、信夫郡長柴山景綱(県令三島通庸の義兄)が周辺住民千人余りを集め発掘した。このため今は、三方が石垣になったくぼ地の底にある。「日記」に記された柵は、10年ほど前に取り払われた。文知摺観音(普門院)の横山俊邦住職は「正岡子規が訪れた時『あの柵は何だ』と不評だったらしい。代わりにモミジを植えた」と話す。」
とある。古い柵がそのまま残っていたわけではないが、ただネット上には鉄格子の扉のついた石と鉄の柵に囲まれている写真が多数ある。
それで気になる大きさだが、桃隣の扇を使った計測によると「長さ一丈五寸(約3.2メートル弱)、幅七尺余(2.1メートル強)」。小さめなのは半分埋まってたせいだろう。発掘されて角度も変わったから比較はしにくいが、当時の状態としては正確だったと思う。
文字摺の石の幅知ル扇哉 桃隣
なお、この文知摺観音の付近に福島市山口という地名が残っている。
「一里行、左の方徑より佐葉野と云所、二里分入、瑠璃光山醫王寺。寶物品々有。中に義経の笈・辨慶手跡・大盤若アリ。佐藤庄司舊跡、丸山城跡アリ。南殿櫻・夜の星(是名水の井也)。庄司墓所・一門石塔・次信・忠信の石塔有。
〇星の井の名も頼母しや杜若
〇丸山の橋も武き若葉哉」(舞都遲登理)
五十辺に戻り、仙台道を一里行くと多分今の瀬上町本町のある辺りから左に入っていったのだろう。このあたりに瀬上(せのうえ)宿があった。曾良の『旅日記』には、「瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。」とある。佐場野古屋という地名はあるが、多分佐場野(佐葉野)はもっと広い地域を表していて、瑠璃光山醫王寺のあたりも含まれていたのだろう。
瑠璃光山醫王寺に伝わる宝物は曾良の『旅日記』だと、「寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。」で、判官義経の笈と弁慶の手跡(書のこと)は一致している。笈は今だとあの『鬼滅の刃』の竈門炭治郎が背負ってるああいうものを想像すればいいかもしれない。あれも一種の笈だと思う。「大般若」は大般若経のこと。
境内には今も佐藤基冶・乙和の墓碑、佐藤継信と忠信の墓碑がある。医王寺のホームページによると、
「佐藤継信と忠信の墓碑に関しては、中世に広く見られた板碑と呼ばれる供養塔で、石塔の角が無いのはかつて熱病の際に飲むと治るという言い伝えがあり削られたためで、2人のような勇猛な武士にあやかりたいとする信仰がありました。」
とのこと。
丸山城は今は大鳥城と呼ばれ、舘ノ山公園になっている。医王寺からは川を渡った向こう側にある。東水の手、西水の手という井戸の跡があるが、夜の星なのかどうかは不明。
『奥の細道』だと、
「月の輪のわたしを越て、瀬せの上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半計に有あり。飯塚の里、鯖野と聞ききて、尋々行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。梺に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞きこえつる物かなと袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入いりて茶を乞へば、爰に義経の太刀たち・弁慶が笈をとゞめて什物とす。
笈も太刀も五月さつきにかざれ帋幟」
これだと丸山城のすぐそばに医王寺があるかのように錯覚する。また、笈は弁慶のものになっているし、義経の太刀が付け加わっている。
さて、丸山城にて二句。
星の井の名も頼母しや杜若 桃隣
丸山の橋も武き若葉哉 同
特に説明することもないだろう。
「此所ヨリ飯坂へ出、奥海道桑折へ出る。是ヨリ藤田村へかかり、町を出離て、左の方へ二丁入、義経腰掛松有。枝葉八方に垂、枝の半は地につき、木末は空に延て、十間四方にそびえ、苺の重り千歳の粧ひ、暫木陰に時をうつしぬ。
〇辛崎と曾根とはいかに松の蟬」(舞都遲登理)
丸山城は今は福島市飯坂町になっていて、それだけ飯坂温泉は近い。芭蕉と曾良はここで一泊しているが、桃隣はスルーする。いわき湯本の方は詳しく書いているが、本家の飯坂の方はあまり見るものがなかったのだろうか。
桑折と藤田は東北本線では一駅だ。ちなみにその次が貝田になる。義経の腰掛松は藤田と貝田の中間にある。今は三代目の小さな松があるという。この松については『奥の細道』にも『旅日記』にも記載がない。雨が降っていたのと芭蕉の持病の再発のせいで、寄り道をしたくなかったか。
辛崎と曾根とはいかに松の蟬 桃隣
辛崎の松は大津の琵琶湖岸にあり、
辛崎の松は花より朧にて 芭蕉
の句でも知られている。
曽根の松は兵庫の曽根天満宮にある。いずれも遠くにあるので、この義経腰掛松で鳴いている蝉にとっては何のことやら。
「經塚山此所なり。又海道へ出るに、國見山高クささえ、伊達の大木戸構きびしく見ゆ。是ヨリ才川村入口に鐙摺の岩アリ。一騎立の細道也。歩行て右の方に寺有、小高キ所、堂一宇、次信・忠信兩妻軍立の姿にて相双びたり。外に本尊なし。
〇軍めく二人の嫁や花あやめ」(舞都遲登理)
この義経腰掛松のあたりが経塚山だったのか、近くに厚樫山のきれいな三角形が見える。かつては国見山とも呼ばれていた。かつて頼朝軍と奥州藤原氏の軍とが戦った阿津賀志山の戦いがあったところだ。
仙台道に戻って少し行くと国見峠になり、この辺りに伊達の大木戸があった。伊達の大木戸というからには扉が閉まるような立派な門が建っていたかと思ったが、どうもそうではなくこの峠自体がそう呼ばれていたようだ。
曾良の『旅日記』には、
「桑折トかいた(貝田)の間ニ伊達ノ大木戸 (国見峠ト云山有)ノ場所有。コスゴウ(越河)トかいたトノ間ニ 福嶋領(今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也)ト仙台領(是ヨリ刈田郡之内)トノ堺有。」
とある。「越河と書いた戸の間に」と読みそうになったが、「越河と貝田との間に」が正しい。伊達の大木戸は桑折と貝田の間にあり、実際の福嶋領と仙台領の境は貝田と越河の間にあるという意味。
『舞都遲登理』の「構きびしく」も何らかの構造物があるように思ってしまうが、「きびしく」は道の険しさのことを言う場合もある。
越河を過ぎると斎川(才川)になる。鐙摺(あぶみずり)の岩は曾良の『旅日記』では「アブミコワシト云岩有」となっている。そこから少し入ったところに堂があったようだ。曾良の『旅日記』には「次信・忠信ガ妻ノ御影堂有」となっている。今は甲冑堂という名の堂が建っていて、桃隣の句碑があるという。
軍めく二人の嫁や花あやめ 桃隣
二人の妻のことは、『奥の細道』では医王寺の所に記されている。
「又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。」
この二人の妻は二人の息子を失った義母を慰めるために、甲冑を着て、息子が帰って来たかのように演技したという。別に甲冑を着て戦ったわけではないようだ。
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