『奥の細道』の出羽三山、『梵灯庵道の記』、桃隣の「舞都遲登理」と、いろいろその土地についてネットで調べていると、結構時間を忘れる。家にいてもGo On a Journey、行く先は今ではなく昔の日本だ。
それでは「舞都遲登理」の続き。
「麓ヨリ二里登ル、かたのごとく難所、岩潜・岩の立橋・千尋の谷・春夏の中嶺ニ茶屋五軒、魚肉酒禁断。馬耳峯の間十丁余有、頂上ニ登て四方を見るに眺望不斜。
右の外、霊山の気瑞おほし。
〇土浦の花や手にとる筑波山
〇筑波根や辷て轉て藤の華」(舞都遲登理)
岩潜は母の胎内くぐりだろうか。岩の立橋は弁慶七戻りだろうか。千尋の谷は特にどこというわけではないのかもしれない。石岡側から登ったからおそらく今のおたつ石コースに近いのではないかと思う。
山頂付近に茶屋が五件あるが霊場なので魚肉酒はない。
男体山・女体山の二つの嶺は馬の耳に例えられていた。眺望不斜の「不斜」は「ななめならず」で要するに半端ねーっということ。
句の方は、
土浦の花や手にとる筑波山 桃隣
麓の土浦の桜まで手に取るように見える。それだけ眺望不斜ということ。
筑波根や辷て轉て藤の華 桃隣
「辷て轉て」は「すべってこけて」と読む。藤は臥すに通じる。岩が多く、這って進まなければならないところも多かったということだろう。
「峯より山越の細道アリ。うしろへ下りて、椎尾山・西光寺・本尊・薬師・桓武帝勅願所。所は自然の山を請て、瀧は木の間より落ル。
〇赤松の小末や乗垂花の滝」(舞都遲登理)
下山は反対側の薬王院コースになる。太郎山(坊主山)から尾根を下り、標高ニ五六メートルの椎尾山に出る。その山腹に椎尾山薬王院がある。延暦元年(七八二年)最仙上人の開基で桓武天皇の勅願によるものだった。「西光寺」はよくわからないが、そう呼ばれてた時期もあったのか。薬王院の本尊は薬師如来で鎌倉時代に作られた金銅仏の座像だという。近くに不動滝という小さな滝がある。
赤松の小末や乗垂花の滝 桃隣
「乗垂」は「のたる」と読むが、意味はよく分からない。「乗りたる」ということか。赤松の小梢に垂れる藤の花を瀧に見立てたのかもしれない。
「一里行て櫻川、明神アリ。しだの浮嶋此邊也。此川下龜熊橋渡り行ば、小栗兼高館、則小栗村とて旅人泊ル。
〇汲鮎の網に花なし櫻川」(舞都遲登理)
椎尾山から一里くらいの所の明神というと歌姫明神のことだろうか。かつて歌垣が行われた場所だというが、今は小さな社があるだけだ。「しだの浮嶋」は稲敷市の浮島のことで、ここからはかなり離れていて、霞ケ浦の方に戻ってしまう。
亀熊橋はそこから北へ行った真壁支所のあるあたりで、今は亀熊大橋がある。桜川を渡る。
小栗兼高館は小栗城のことであろう。亀熊橋から北西に行き、水戸線新治駅を過ぎた先に小栗という地名がある。小栗城跡はは小貝川の脇にある。
発句は亀熊橋のあたりだろう。
汲鮎の網に花なし櫻川 桃隣
汲鮎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 川上へのぼる鮎を網の中に追い入れ、小さい柄杓(ひしゃく)または叉手(さで)などですくい上げること。また、その鮎。《季・春》 〔俳諧・増山の井(1663)〕」
とある。
鮎を取る網に花は掛かっていない。網の目からすり抜けるという意味で、逆説的に桜川に花筏ができていることを言っているのだろう。
「是ヨリ宇都宮へ出て日光山。
御山へ登れば案内連ル。神橋。山菅橋と云。
御祭禮四月十七日東照宮、九月十七日光宮。
石ノ花表・二王門・御馬屋・御水屋・輪蔵・上御蔵・中御蔵・下御蔵・赤銅華表(御祓アリ)・皷樓・鐘樓・撞鐘(朝鮮ヨリ献上)・火灯(同斷)・陽明門(外矢大臣)内(水天風天)・廻樓・神樂所・神輿舎・護摩堂・唐門。
御本社 御廟上ノ山ニ有。御本地堂(後ニ)赤銅ノ双林塔・三佛堂・常行堂・頼朝堂・本宮権現
〇東照宮奉納 花鳥の輝く山や東向」(舞都遲登理)
今の筑西市にある小栗の里から宇都宮はそう遠くない。真岡から鬼怒川を渡れば宇都宮だ。そこからは日光街道の杉並木になる。ここまで、鹿島から日光へほぼ最短距離で直線的に抜けてきたことになる。
日光ではガイドが付いたようだ。
神橋は山菅橋とも山菅の蛇橋とも呼ばれる。ウィキペディアには、
「奈良時代末、勝道上人の日光開山に際して、深砂大王が2匹の大蛇をして橋となし、その上に菅が生じたとされる。橋の異称はこの伝承による。また、この伝承からこの頃に創建されたと考えられているが、詳しくはわかっていない。
室町時代の旅行記『回国雑記』や『東路の津登』に記載があり、当時には認知されていた橋であり、構造は刎橋であったと考えられている。
東照宮造営と同時に架け替えられ、それ以前の刎橋の構造から、現在の石造橋脚を有する構造となった(当時は素木造)。これ以後一般の通行は禁じられ、架け替えの際に下流側に設けられていた仮橋を一般の橋「日光橋」とした。」
とある。
宗長の『東路の津登』は『梵灯庵道の記』の所でも引用したが、
「坂本の人家は数もかわず続つづきて福地とみゆ。京鎌倉の町ありて市のごとし。爰よりつづら折なる岩を伝ひてうちのぼれば、寺の様哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原のね幾重ともなし。左右の谷より大なる河流出たり。落あふ所の岩の崎より橋有。長さ四十丈にも余たるらん。中をそらして柱をも立ず見へたる。山菅の橋と昔よりいひわたりたるとなん。」
とある、この四十丈(約百二十メートル)の橋というのがそれだろう。今の神橋が二十八メートルだから宗長の記述に誇張があるのか、それとも別のもう少し広い場所に架かっていたのかもしれない。「左右の谷より大なる河流出たり」とあり、これが大谷川と稲荷川との合流地点だとすると、今の車道の神橋よりも下手にあったのかもしれない。
「刎橋(はねばし)」というのは、ウィキペディアに、
「刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる。」
とある。山梨県大月市の猿橋は約三十メートル(十丈)、かつて大井川にあったという井川刎橋は四十から五十五間と言われていて、一間は六尺、一丈は十尺だから五十五間だとしても三百三十尺、三十三丈ということになる。四十丈はやはり誇張だろう。
日光東照宮の「御祭禮」は今日では五月十七日に春季例大祭、十月十七日に秋季祭が行われている。明治政府によって旧暦の行事が禁止されたため、月遅れで行われている。
次に「石ノ花表・二王門・御馬屋・御水屋・輪蔵・上御蔵・中御蔵・下御蔵・赤銅華表(御祓アリ)・皷樓・鐘樓・撞鐘(朝鮮ヨリ献上)・火灯(同斷)・陽明門(外矢大臣)内(水天風天)・廻樓・神樂所・神輿舎・護摩堂・唐門。」だが、石ノ花表(とりい)は今の石鳥居(一の鳥居)、二王門は表門、御馬屋は三猿で有名な神厩舎、御水屋は御水舎、輪蔵は御水舎の近くにある。ここまでは表門から陽明門へ行くクランク状の通路の左側にある。右側には下御蔵(下神庫)・中御蔵(中神庫)・上御蔵(上神庫)がある。
この先に赤銅華表(唐銅鳥居)があり、正面に陽明門が見える。石段を上ると右に鐘楼、左に鼓楼がある。鐘楼とは別に、その手前に撞鐘がある。朝鮮(チョソン)第十六代国王仁祖(インジョ)より、寛永二十年(一六四三年)、竹千代(後の四代将軍家綱)誕生の際に朝鮮通信使が香炉、燭台、花瓶(三具足)とともに持参したという。重かっただろうな。
「火灯(同斷)」はおそらく同じ寛永二十年(一六四三年)にオランダから贈られた廻転灯篭のことだろう。
そして東照宮と言えば陽明門。「陽明門(外矢大臣)」は陽明門の外側を向いて弓矢を持った左右の大臣の随身像があるということだとわかるが、そのあとの「内(水天風天)」は何だろうか。内側に向いて狛犬があるが、それのことだろうか。水天も風天も仏教の十二天だが、そのような像があったのか、よくわからない。あるいは狛犬の青が水天で緑が風天を表しているのだろうか。
廻樓は、拝殿を取り囲むように陽明門の左右から建っていて、東回廊の坂下門の上に眠り猫がある。神樂所(神楽殿)は陽明門を入って右側、神輿舎は左側にある。護摩堂は祈祷殿のことか、神仏分離でいまは祈祷殿なのだろう。唐門は拝殿の入り口にある。
「御本社 御廟上ノ山ニ有」は奥宮のことか。
「御本地堂(後ニ)」は東照宮を垂迹とした場合、輪王寺が本地となる。東照宮の後ろというよりはむしろ西側にあるといった方がいいか。
赤銅ノ双林塔は青銅製の相輪塔のことであろう。総本堂は三佛堂と呼ばれている。ここだと東照宮を出て一度参道に戻ることになる。常行堂はそこから北西へ行ったところにある。
頼朝堂は不明。二荒山神社は古くは頼朝公の寄進によって栄えたという。常行道は摩多羅(マタラ)神が祀られていて、これが頼朝のことだともいう。
本宮権現は明治の神仏分離によって今の本宮神社になった。神橋を渡ったところの右側にある。頼朝堂も明治の神仏分離でわからなくなったのかもしれない。
最後に桃隣は一句奉納する。
花鳥の輝く山や東向 桃隣
最大限の賛辞といっていいだろう。
「瀧尾権現・中宮・三本杉・鐡塔・普賢・子種石(井伊少将造営)、御手洗・石天神・八幡別所・中宮別所。此所に百貼綴ギセル棒 手水アリ。」(舞都遲登理)
瀧尾権現も明治の神仏分離で今は瀧尾神社になっている。修験の地だった。東照宮の裏側の白糸の滝の所にある。
瀧尾神社は田心姫命(たごりひめのみこと)を祀り、女体中宮とも呼ばれている。神仏習合時代は普賢菩薩と習合していたか。
三本杉もそのの境内にある。桃隣の訪れた三年後の元禄十二年にはその一本が倒れてしまう。子種石もここにある。鉄塔は不明。
御手洗・石天神・八幡別所・中宮別所など、かつてはかなり大きな神社でありお寺だったと思われる。百貼綴ギセル棒も不明。
宗長の『東路の津登』にも瀧尾権現は描かれている。
「あくる日、堂権現拝見して滝尾といふ別所あり。滝のもとに不動堂あり。右に滝のかみに楼門あり。回廊右にみなぎり落たる河あり。松吹風、岸うつ波、何れともわきがたし。寺より二十余町の程大石をたためり。なべて寺の道石をしきてなめらかなり。是より谷々を見おろせば、院々僧坊五百坊にも余りぬらんかし。」
ただ、神橋の所で四十丈というのがあったから、宗長は若干話を盛る癖があったのかもしれない。
「カンマンノ淵・慈雲寺淵・岩上ニ石不動立。」(舞都遲登理)
憾満ガ淵(含満ガ淵)は芭蕉も訪れている。曾良の『旅日記』に「一 同二日 天気快晴。辰の中剋、宿ヲ出。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・大田原ヘ趣。」とある。
憾満ガ淵は大谷川の反対側にある。慈雲寺はその入り口にある。慈雲寺淵というのが別にあるのではないのだろう。かつては対岸に二メートルの不動明王の石像があったという。
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