コロナは間違いなく世界を変えるだろう。ただ、その変化についていけない人たちもたくさんいて、それが何としてでも世界を元通りにしようと頑張っていて、世界は右翼左翼関係なく、変えようとする人たちと元通りにしようとする人たちに分断され、これからしばらくこの戦いが続くのだろう。
「コロナは風邪だ」と言う人たちは基本的には世界を元に戻したい人たちで、だからなぜコロナが安全かと聞くと、みんな言うことが違ってたりする。まず結論ありきで、後からいろいろ理由を探しているといっていいだろう。
ただ言えるのは、時の流れに逆らって勝った人はいないということだ。
あとやっぱり核兵器禁止条約の前に独裁政治禁止条約を作るべきだと思う。
それでは「梵灯庵道の記」の続き。
さて、この後梵灯は謎の湖へと向かう。
「みちの國に乞食し侍し比、ひろき野邊の草高かりしを、はるばるとわけ過たるに湖水あり。汀に付て人の往来かとおぼえて、鳥の跡よりも猶かすかなるがたえだえ見え侍をたどりつつ、所がらのおもしろさに一足づつ前へ歩に、傍にさかしき谷をおりくだる人あり。鬢[髟酋]は雪よりもしろく、身には藤編る衣をきたり、此翁歩に近付て、いづくへ心ざし給ふ人ぞ、此すゑには道もあるべからず、われは此山に年ひさしく杣をとりて住侍る物なり、わが跡に附ておはしませ、人里までは日も暮なんとすといふにうれしくて、彼翁のもとにいたりぬ。
げにも白地に板ども取かけたる杣木の中に、翁がたぐひなんめりとみえて、人ひとりふたりをとなふ。むかしは此湖のあたりに、人の往来事ありけるやと問に、さる事なし、心ざしありて住給はんに子細やはあるべきといふに、やがてかの翁がこと葉に取つきて、かすかなる庵をむすび、時々里に出て食をこひなんどして一夏を送侍し也。
しらず仙郷にもやありけんとぞおぼえし。水四面の山をうつして、みがける鏡よりもかげいさぎよく、霊松の傾たるあり、崛木の央なるあり、浪丹青をうつして、畫圖のよそほひをなす。あざやかなる事千枝・経教が筆もをよぶがたくや。
水底には金銀の沙をしけるかとみえて、鷺たち連おどれども、水濁事なし。朝には瑞雲岫を出て群あり、夕には白日の嶺に映徹せるかげ、すべて眺望一にあらず。水にむかへば天ここにあり。我はからず非想非々想に至かとうたがふ。
かやうの霊地にこそしづかに残生をもをくりたく侍しに、かの翁あきの霧にやをかされけん、朝の露ときえ、夕の煙とたちのぼりぬ。あはれさいふばかりなし。
いよいよたよりなくて、長月廿日比にいづくともなく吟出ぬ。ただ蒲団を枕とし、衾を筵としてぞ、ふるき堂などには夜を明し侍し。」
まずこの湖がどこかということだが、金子金次郎は斉藤清衛博士の説に従い宮城県の伊豆沼を有力としている。確かに「ひろき野邊の草高かりしを、はるばるとわけ過たるに湖水あり」とあるから、仙台平野北部の伊豆沼は考えられる。それに加えて伊豆沼が有名な白鳥の飛来地でもあり、「鷺たち連おどれども」は白鳥のことではないかとしている。
ただ、疑問がないでもない。一方では「傍にさかしき谷」だとか「水四面の山をうつして」「朝には瑞雲岫を出て群あり、夕には白日の嶺に映徹せるかげ」と山の中を示す言葉も見られる。
また、白鳥の飛来は冬だが、「一夏を送侍」「長月廿日比いづくともなく吟出ぬ」と、旧暦九月二十日にはこの地を去っている。「水底には金銀の沙をしけるかとみえて、鷺たち連おどれども、水濁事なし」という記述も水が澄んでいるから、外から水の流れ込む平地の沼とは思えない。
そこで一つ思いついたのが会津の五色沼。山の中だが火山地形で広い野辺もある。人里は遠いが、猪苗代湖の方に出れば猪苗代城もあり町もある。景色もまた仙郷と呼ぶにふさわしい。
そう思って調べてみたが、このあたりの湖は一八八八年の磐梯山大噴火による山体崩壊によってできた湖だった。ただ、一つだけそれ以前からある湖がある。それが雄国沼だ。
ウィキペディアによれば、
「雄国沼は猫魔ヶ岳や雄国山、古城が峰、厩岳山などを外輪山にもつ、猫魔火山のカルデラにある湖沼である。以前は陥没カルデラに水が溜まったカルデラ湖と考えられていた、しかし現在では古猫魔火山が50万年前に北東方向へ山体崩壊することで爆裂カルデラを生じ、その内部に後の火山活動で猫魔ヶ岳峰の山体が形成され、そこにできた凹地に水が溜まって雄国沼が生まれたと考えられている。
湖面は標高1,090mの位置にあり、周囲の山々はブナが多く、また、初夏にはレンゲツツジ、6月末から7月初めには沼の南の湿原地帯でニッコウキスゲの大群落が咲き誇り、この時期は多くのハイカーやカメラマンが沼を訪れる。また、近年は冬に山スキーやスノーシューで訪れる人も増えている。かつては沼の面積は現在の半分程であったが、江戸時代初期に大塩平左衛門がおこなった灌漑工事により面積が拡大した。」
だという。ここだと山を越えなくてはならないが黒川(今の会津若松)に出ることもできただろう。黒川城は至徳元年(一三八四年)に築城されたというから、この頃には既にあった。
湖への道は「汀に付て人の往来かとおぼえて、鳥の跡よりも猶かすかなるがたえだえ見え侍」と獣道よりも心細いあるかないかの道で、そこで一人の老人に出会う。[髟酋]はフォントが見つからなかったが上が髟で下が酋で「しう」と読む。鬚(しゅ:あごひげ)のことか。鬢(耳の横の髪の毛)と頬から顎にかけての髭が真っ白で、多分頭頂部は禿げあがっているのかもしれないが、中世の人だから烏帽子を被っているはずだ。今で言えばサンタクロースのような風貌か。藤衣を着ている。
その老人に、「この先は行き止まりじゃがどこへ行くのかのう。わしゃあもう長いこと木こりをやってるものでのう。ついてきなさい。今から人里へ行こうにも日が暮れるからのう。ほっほっほっ。」という感じで話しかけられ、ついていったのだろう。
「白地」は道も区切りも何もない土地という意味だろう。板で作った掘立小屋にその老人は仲間と一緒に住んでいた。昔はこの辺りも人の往来があったのかと聞くと、そうではなく「心ざし」があってここに住んだと言う。何らかの事情で隠棲したのだろう。梵灯もここに庵を結び、時々里へ托鉢に出て一夏を過ごすことになる。
会津といえばこの四十年くらい後に猪苗代湖東岸の小平潟天満宮付近で、あの猪苗代兼載が誕生することになる。兼載は六歳の時に会津黒川の真言宗自在院に引き取られて僧になる。
その頃の会津黒川ではすでに連歌が盛んで、そんな環境の中で兼載は育つのだが、その種を蒔いたのは梵灯だったのかもしれない。
さて、その仙人のような老人も秋の霜に、多分風邪をこじらせて肺炎にでもなったのだろう。あっという間に朝の露になってしまった。その夕方には火葬にして、煙となって天に昇っていった。そして長月二十日頃、梵灯も庵を出てゆくことになる。「吟出ぬ」というのは吟行に出ることで、どこへ行くともなく去ってゆくことを遠回しに言ったものであろう。それからもしばらくは一か所に留まることもなく、「ただ蒲団を枕とし、衾を筵としてぞ、ふるき堂などには夜を明し侍し。」という生活を続けた。ここでこの紀行文は終わる。
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