曾良の『旅日記』の六月十日の所にはこうある。
「十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎麦切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入被迎。又、大杉根迄被送。祓川ニシテ手水シテ下ル。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々小雨ス。ヌルルニ不及。申ノ刻、鶴ケ丘長山五良右衛門宅ニ至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。」
午前中に飯道寺正行坊がやってきて会ったとあるが、どういう人かはよくわからない。ただ、江州(近江国)飯道寺というと、四日の所に江州円入とあったから、円入の知り合いなのだろう。
昼前に本坊に行って、また蕎麦切を食べる。茶はともかく、お寺で昼から酒飲んでたのか。二時ごろまで盛り上がったのだろう。
これがお別れ会になったのか、芭蕉と曾良は鶴岡に向かう。本坊を出て円入は道に出る所まで送ってゆく。「大杉根」はよくわからないが爺杉のことか。祓川で手を洗い清め若王寺宝前院を出てゆく。手向の左吉(露丸)の家から芭蕉さんだけが馬に乗り、「光堂」まで釣雪が送っていく。もちろん中尊寺ではなく、岩波文庫の萩原注によれば手向の正善院前の黄金堂だという。そこから芭蕉と曾良と露丸は鶴岡に向かう。
夕方近く鶴岡の長山五良右衛門宅に到着する。お粥を食べて一休みし、夜になってから興行を行う。
長山五良右衛門は『奥の細道』本文には「長山氏重行」とある。
さて、この時の発句。
めづらしや山をいで羽の初茄子 芭蕉
「山を出で」に「出羽」を掛けて、出羽三山を下りてここ鶴岡で初めて取れた茄子をご馳走になってめずらしや、となる。
こういう掛詞を使った技巧的な句は、貞門時代と蕉風確立期の古典回帰の時期に特徴的にみられる。
涼風やほの三ヶ月の羽黒山 芭蕉
の句も「ほの見る」に「みか月」を掛けているし、
雲の峰幾つ崩レて月の山 芭蕉
の句も「崩れて尽きぬ」と「月の山」を掛けている。そしてこのあと酒田では、
あつみ山や吹浦かけて夕すずみ 芭蕉
と二つの地名に「暑さ」を「吹く」を掛けている。
脇は長山五郎右衛門こと長山氏重行が詠む。
めづらしや山をいで羽の初茄子
蝉に車の音添る井戸 重行
蝉の鳴く声に井戸の滑車の音がするだけの井戸端にすぎません、と謙虚に応じる。
時代劇でよく見るあの滑車のついた井戸は「車井戸」という。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 滑車(かっしゃ)に縄をかけ、その両端に釣瓶(つるべ)をつけて、縄を上下することで水を汲むしかけの井戸。車井。くるまき。
※雑俳・天神花(1753)「長みじか京はのこらず車井戸」
とある。
第三。
蝉に車の音添る井戸
絹機の暮閙しう梭打て 曾良
「閙」は「さわがし」とも読むがここでは「いそがし」と読むらしい。「梭」の読みは「をさ」で機織りで横糸を通すシャトルのこと。
井戸に近い小屋では絹織物を織っていて、せわしげに横糸を通している。鶴岡シルクは近代に入ってからだが、江戸時代にも多少は絹織物も作られていたか。
四句目。
絹機の暮閙しう梭打て
閏弥生もすゑの三ヶ月 露丸
閏三月があったのは近いところでは貞享三年、『春の日』が刊行され古池の句が大ヒットを記録した年だった。穀雨の後の立夏だけが入る月で閏三月の三日は新暦の四月の下旬になる。
四句目は軽くということで時候を付ける。
曾良の『旅日記』に「発句出テ一巡終ル。」とあるように十日はこの四句で終わる。
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