豪雨は九州南部から北部に移って、あいかわらず大変なことになっている。七夕の気分でもないね。
自民党は習近平国賓来日中止要請決議を了承した。まあ、これでポスト安倍争いで岸田の株が急騰というところか。
コロナは今頃エアロゾル感染がどうのこうのって、前からわかってたことなのに、空気感染との違いの定義が曖昧なのも一因のようだが、まだそういうのが「ない」と思っている人がいるのかな。
確かにエアロゾルがデマだと信じているなら、何でライブハウスが自粛なんだって言いたくもなるだろうな。
それでは「早苗舟」の巻の続き。
二裏。
三十七句目。
ずいきの長のあまるこつてい
ひつそりと盆は過たる浄土寺 利牛
浄土寺といっても浄土宗か浄土真宗かでお盆のやり方は違うが、当時は浄土真宗は一向宗に含まれていたので、ここでは浄土宗の寺であろう。
江戸には赤坂に浄土宗浄土寺がある。「猫の足あと」というサイトによれば、
「起立は文亀の頃で、初め江戸城内平川口の地に創建し、後に白銀町へ替地を命ぜられ、また麹町十丁目成瀬隼人正屋敷の邊に引き移つたが、更に寛文五年、類焼の頃、現在の地へ替地を拝領移轉した。」
ということで、元禄の頃には既に赤坂に移っていた。
同じ「浄土寺」の名前でも兵庫県小野にある浄土寺は高野山真言宗だから、浄土寺だから浄土宗とは限らない。
浄土真宗(当時は一向宗)のお盆はやや特殊だが、それ以外は精霊棚を造り迎え火を焚き、盆灯篭を置き、お供え物をし、送り火を焚いて終わる流れは一緒だ。
盆の時は賑やかだった浄土寺も、過ぎれば静かになり、牛の背に乗ったずいきが運び込まれ、慎ましやかな生活を送る。
三十八句目。
ひつそりと盆は過たる浄土寺
戸でからくみし水風呂の屋ね 野坡
「からくむ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① からげ組む。綱などで縛って一つにまとめる。
※玉塵抄(1563)四三「舫は舟をならべてからくんで一そうのやうにしてのるを云ぞ」
② 組みたてる。構え作る。
※御伽草子・浜出草紙(室町末)「ほうらいの山をからくみ」
③ 言いがかりをつけて困らせる。からむ。
※洒落本・仮根草(1796か)三子東深結妓「なんだかおつにからくむの」
④ いろいろと工夫する。また、たくらむ。
※浄瑠璃・心中刃は氷の朔日(1709)上「あぢなあき内からくんで」
とある。この場合は②であろう。
当時の風呂は蒸し風呂が主流だったが、大きな桶に水をためて沸かす風呂もあり、これを水風呂と言った。
庭に据えるもので、お寺なら水風呂を置く十分なスペースもあっただろう。古くなった戸板を廃物利用して屋根にする。
三十九句目。
戸でからくみし水風呂の屋ね
伐透す椴と檜のすれあひて 孤屋
「伐透(きりすかす)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘他サ四〙 切って間が透くようにする。
※再昌草‐永正六年(1509)八月二二日「夏のうちはすずむした陰しめおきし桐きりすかし月をみる哉」
とある。
戸板で囲った小屋は伐り透かして、外が見えるようにしていたのだろう。
「椴」は椴松(とどまつ)の「とど」だが、ここでは「もみ」と読むようだ。樅(もみ)は戸板に用いられる。「檜」といえばいまでも檜風呂というくらい、浴槽に用いられる。小屋と浴槽が密着しているのか、擦れ合う音がする。
四十句目。
伐透す椴と檜のすれあひて
赤い小宮はあたらしき内 利牛
前句を樅や檜の茂る山の中とし、間伐して新しい神社の祠を作る。赤いから稲荷神社か。
四十一句目
赤い小宮はあたらしき内
浜迄は宿の男の荷をかかえ 野坡
浜から舟に乗る旅人の荷物を運び、帰りは新しいお稲荷さんにお参りして帰る。旅の無事を祈ってのことだろう。
「五人ぶち」の巻の二十九句目に、
神拝むには夜が尊い
月影に小挙仲間の誘つれ 野坡
の句もあるように、庶民の間での神祇信仰は篤く、ちょっとの間でも時間があればお参りする。
四十二句目。
浜迄は宿の男の荷をかかえ
師走比丘尼の諷の寒さよ 孤屋
「師走比丘尼」は「広辞苑無料検索」に、
「おちぶれて姿のみすぼらしい比丘尼。」
とある。
その比丘尼だが、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 《〈梵〉bhiksunīの音写》出家得度して具足戒(ぐそくかい)を受けた女性。尼僧。
2 中世、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人。
3 江戸時代、尼の姿をした下級の売春婦。
4 「科(とが)負い比丘尼」の略。」
とある。
「諷(うた)」は経文を声に出して唱える「諷誦(ふうじゅ)」のことだとしてら、一応本物の尼さんなのか。托鉢か勧進か、街頭に立つ姿が寒々としている。
寒い中宿の男は浜まで荷物を運び、落ちぶれた比丘尼は諷誦する。向かえ付けといえよう。
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