2022年10月29日土曜日

  こっちに来てから秦野市俳句協会の句会ろ入門講座に出席して、入会申込書も出してきた。
 秦野だけなのか全国的な傾向なのかはよくわからないが、写生説が既に時代遅れだと認識され、伝統回帰の流れが生じているなら、この流れに乗りたいものだ。
 できれば俳諧の復興のために何かできたらいいな。別に作者としてランクを上げようとかそういうのではなく、俳諧を盛り上げる活動のお手伝いができたらと思う。
 俳諧を広めるのに必要なのは、神経質な芸術、それも西洋崇拝的な芸術論ではなく、本来の俳諧の笑いを競うゲームだという原点に戻したい。
 俳味というのは特殊な笑いがあるわけではなく、あくまで質の高い笑いということだと思う。シモネタや人を見下した揶揄ではなく、あるあるネタ、シュールネタ、パロディーネタなどの芭蕉が切り開いた高度な笑いの世界は今日の漫才でも漫画・アニメ・ラノベの中にも生きている。それを俳諧に取り戻したい。

 それでは「革足袋の」の巻の続き。
 初裏、九句目。

   ひつぱがれぬるあけぼのの空
 うき世町枕のかねをふきあげて  松臼

 うき世町は名だたる遊郭というよりは、場末の怪しげな売春窟であろう。一夜の枕に散々金をむしり取られた挙句、朝には裸で放り出される。
 十句目。

   うき世町枕のかねをふきあげて
 わすれぬ恋の荷持歩行持     執筆

 荷持(にもち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「荷持」の解説」に、

 「① 荷物を持ち運びする人。運搬人。また、その人を卑しんでいう語。〔羅葡日辞書(1595)〕
  ※浮世草子・世間胸算用(1692)五「大坂旦那廻りの太夫どのにやとはれ荷持(ニモチ)をいたせし時」
  ② 家財道具を多く持っている人。
  ③ 建築で、上の荷重を受ける材。」

とある。歩行持(かちもち)は歩いて運ぶ荷持。
 昔は大商人だったが、遊郭で散財して今は歩行持をして暮らしている。
 十一句目。

   わすれぬ恋の荷持歩行持
 しのぶ山しのびてかよふ駕籠も哉 在色

 お忍びの恋と言いながらも駕籠に乗って通う人には、付き従う歩行持がいる。本当は俺も好きだったのにと、『源氏物語』の惟光・良清のポジション。
 十二句目。

   しのぶ山しのびてかよふ駕籠も哉
 人のこころのかたき岩茸     一鉄

 岩茸は崖に生える茸で採集が難しい。
 こっそり通うのは岩茸を取りに行くようなもので危険が大きい。前句の「しのぶ山」から恋を山の茸に喩える。
 十三句目。

   人のこころのかたき岩茸
 松の葉の露をがてんの隠家に   志計

 「松の葉の露」は松露のことか。後に『続猿蓑』の表題となる、

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

の句が読まれることになる茸で、美味で香りも良い。
 松露に合点していた隠れ家に、もっと入手困難な岩茸が現れる。
 十四句目。

   松の葉の露をがてんの隠家に
 なる程せばき窓の月影      雪柴

 松の枝ぶりが気に行って住んだ隠れ家だが、松の木が邪魔で月の光があまり入らない。切りたくもあり切りたくもなし、という古典的なネタ。
 十五句目。

   なる程せばき窓の月影
 ふいごより雲に嵐の音す也    正友

 ふいごは狭い出口から風を吹き出す。前句の「なる程せばき」をふいごの口の「鳴る程せばき」にして、月影の窓に嵐のような音がする。
 十六句目。

   ふいごより雲に嵐の音す也
 あん餅をうるかづらきの山    一朝

 これは、

 うつりゆく雲に嵐の声すなり
     散るかまさきの葛城の山
              飛鳥井雅経(新古今集)

の歌によって葛城山を出す。巡礼者のために餡餅を売っている。
 十七句目。

   あん餅をうるかづらきの山
 ふりにける豊等の寺の御開帳   卜尺

 豊等(とゆら)の寺はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「豊浦寺」の解説」に、

 「奈良県高市郡明日香村豊浦にあった寺。欽明天皇一三年(五五二)蘇我稲目が百済の聖明王から献上された仏像・経巻を自宅に安置し、向原(むくはら)寺と呼ばれたのが始まりと伝えられる。のち、推古天皇元年(五九三)に豊浦宮(とゆらのみや)の地を賜わり、堂宇が建立されて豊浦寺と呼ばれた。遺跡地に浄土真宗本願寺派の向原寺(こうげんじ)がある。とよら。とよらのてら。小墾田(おはりだ)寺。」

とある。
 秘仏の御開帳とあれば大勢人が集まり、露店が並ぶ。餡餅も当然あることだろう。

 ふりにける跡ともみえず葛城や
     豊浦の寺の雪のあけぼの
              よみ人しらず(続千載集)

の歌による。
 十八句目。

   ふりにける豊等の寺の御開帳
 善の綱うらそよぐ竹の葉     松意

 善の綱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「善の綱」の解説」に、

 「(善所にみちびく綱の意)
  ① 本尊開帳・常念仏・万日供養などのとき、結縁(けちえん)のため仏像の手などにかけ、参詣者などに引かせる綱。五色の糸を用いるのが常である。
  ※曾我物語(南北朝頃)一〇「つけたる縄は、孝行のぜんのつなぞ。おのおの結縁にてかけ候へ」
  ② 葬式のとき、棺に付けて引く白布の綱。縁の綱。
  ※新撰長祿寛正記(15C後か)「同八月八日の暁、高倉の御所にて御他界あり〈略〉御力者十二人御棺を舁奉る。〈略〉将軍家も、ぜんのつなを御肩に置せ玉」

とある。
 御開帳なので善の綱を引くと、竹の葉がそよぐ。
 十九句目。

   善の綱うらそよぐ竹の葉
 灯明やそれより出て飛蛍     一鉄

 そよぐ竹の葉が善の綱なら、そこから出てきて飛ぶ蛍は灯明になる。
 二十句目。

   灯明やそれより出て飛蛍
 物おもふ身のこもる神前     松臼

 蛍は身を焦がす恋の情を持つもので、そこから物思う身を導き出す。神前に籠って祈りを捧げる女とする。
 二十一句目。

   物おもふ身のこもる神前
 血の泪扨は並木の花の雨     一朝

 血の泪は、

 見せばやな雄島のあまの袖だにも
     濡れにぞ濡れし色は変らず
              殷富門院大輔(千載集)

の歌に「血の涙」という直接的な言葉はないけど、袖の色が変わる涙ということで描かれていて、恋の言葉になる。「血の涙」という言葉の用例は、

 ちの涙おちてぞたぎつ白河は
     君が世までの名にこそ有りけれ
              素性法師(古今集)

の哀傷歌に見られる。
 前句の「物おもふ身」に血の涙と展開するが、花の定座なのでこの桜並木の花散らしの雨も血の涙なのか、とする。
 二十二句目。

   血の泪扨は並木の花の雨
 親はそらにて鳥の巣ばなれ    在色

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『善知鳥』の、

 「親は空にて血の涙を、親は空にて血の涙を、降らせば濡れじと菅簑や」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2670). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。前句の花の雨の血の涙を親鳥が空で流す涙とする。
 ただ、謡曲の殺生の罪ではなく、ただ子供の巣立ちの悲しみとする。

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