それでは「髪ゆひや」の巻の続き、
二裏、三十七句目。
小鹿の角のさいの長六
汐ふきし鯨油火かき立て 松意
賭場の情景で、前句が小鹿の角の賽のような序詞的な言い回しに応じて、行燈の鯨油に「汐ふきし」と付け加える。
三十八句目。
汐ふきし鯨油火かき立て
浦の苫屋にすむ番太郎 志計
番太郎はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「番太郎」の解説」に、
「江戸時代の町や村に置かれた番人のこと。番人を番太と呼ぶことは各地に広く見られるが,番太郎の称はこの番太から転じたものと考えられる。番人の性格は,都市と農村で,あるいは地域によってさまざまな違いがあり,江戸,大坂,京都の三都だけをとっても大きな差異がある。 江戸の場合,番小屋であるとともに公用,町用を弁ずる会所の機能を併せもった自身番屋には,書役として裏店借(うらだながり)の者などが雇われていたが,彼らは自身番親方とは呼ばれても,番太または番太郎とは呼ばれなかった。」
とある。
前句を汐を吹く鯨のいる所で油搔き立てとして、裏の苫屋に番太郎がいる、とする。
三十九句目。
浦の苫屋にすむ番太郎
辻喧嘩侘とこたへてまかり出 一朝
「侘(わぶ)とこたへて」は、
わくら葉にとふ人あらば須磨の浦に
藻塩たれつつわぶとこたへよ
在原業平(古今集)
によるものだが、侘びには侘びるという意味があり、つまり「ちょっと、すまん」と言って仲裁に出てくる。
四十句目。
辻喧嘩侘とこたへてまかり出
博奕の法ただすべら也 雪柴
喧嘩の原因が博奕の諍いというのはありそうなことだ。
四十一句目。
博奕の法ただすべら也
見台に子曰くりかへし 在色
曰は「のたまはく」。今は論語を読む時「いわく」というが、昔は敬語で「のたまわく」だった。
見台は本を読むための台で、大きな声で論語を朗読している。
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、『論語』陽貨の、
「子曰、飽食終日、無所用心、難矣哉、不有博奕者乎、為之猶賢乎已」
を引いている。何もしないよりは博奕をやってた方が良い、ということで、博奕の法を正す。
四十二句目。
見台に子曰くりかへし
裏座敷なる窓の月影 正友
見台に向かって論語を読むような人は裏座敷にいそうだ。
四十三句目。
裏座敷なる窓の月影
かこひ者心やすまず秋の暮 卜尺
かこひ者はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「囲者」の解説」に、
「〘名〙 別宅などに囲っておく女。めかけ。囲い女房。かこいおんな。かこいめ。かこい。
※俳諧・談林十百韻(1675)下「裏座敷なる窓の月影〈正友〉 かこひ者心やすまず秋の暮〈卜尺〉」
※雁(1911‐13)〈森鴎外〉一二「わたしには商用があるのなんのと云って置いて、囲物(カコヒモノ)なんぞを拵へて」
とある。裏座敷などに囲われている。
四十四句目。
かこひ者心やすまず秋の暮
親ぢさくればうき袖の露 松臼
親父によって恋仲が引き裂かれ、幽閉されているとする。
四十五句目。
親ぢさくればうき袖の露
かの町のかよひ路の橋取はなし 一鉄
「取はなし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「取離・取放」の解説」に、
「① 離して別々にする。分離する。物をあった所から持ち去る。はなす。
※万葉(8C後)一四・三四二〇「上毛野佐野の舟橋登里波奈之(トリハナシ)親は離(さ)くれど我(わ)は離(さか)るがへ」
② 持っているものを手もとからはなす。手ばなす。また、手もとから逃がす。とりにがす。
※虎明本狂言・止動方角(室町末‐近世初)「汝は馬をとりはなすな、其ままのっていよ」
③ 剥奪する。取り上げる。とりはなつ。
※史記抄(1477)一二「魏亦━もとの信陵と云所領をもとりはなさぬそ」
④ 戸、障子などを開け広げたり、はずしたりする。障害物をとり除いて広くする。開けはなす。
※浮世草子・武道伝来記(1687)四「奥の間取(トリ)はなして内儀と只ふたりしめやかに」
とある。
かみつけの佐野の舟橋とりはなし
親はさくれどわはさかるがへ
柿本人麻呂(夫木抄)
が本歌で、謡曲『船橋』にもなっている悲恋の物語を「かの町」と遊郭に見立てる。
四十六句目。
かの町のかよひ路の橋取はなし
ばつと川波苔に名の立 松意
「苔に名の立」は、
色にいでて恋すてふ名ぞたちぬべき
涙にそむる袖のこければ
よみ人しらず
の「濃ければ」を「苔れば」に読み替えたか。川に落ちて袖に苔が付けば浮名が立つ。
四十七句目。
ばつと川波苔に名の立
かがり焼一寸先や胸の月 志計
「かがり焼(やき)」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、「鵜を使って捕らえた鮎を篝火に炙る」とあり、謡曲『鵜飼』の、
「ワキ:島つ巣おろし荒鵜ども、
シテ:この川波にばつと放せば、」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3501). Yamatouta e books. Kindle 版. )
「不思議やな篝火の、燃えても影の暗くなるは、思ひ出でたり月になりぬる悲しさよ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3502). Yamatouta e books. Kindle 版. )
の場面を引いている。
鮎のかがり焼きは旨いが、殺生の罪で地獄に落ちることを思うと一寸先は闇となる。
四十八句目。
かがり焼一寸先や胸の月
さらされ者にうしろゆびさす 一朝
晒(さらし)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「晒(刑罰)」の解説」に、
「江戸時代の刑罰の一種。幕府の制では、原則として、江戸日本橋の南詰の広場において、衆人の環視に晒すことで、御定書(おさだめがき)ではその期間を3日間と定めている。これに穴晒(あなさらし)と陸晒(おかさらし)とがある。穴晒は鋸挽(のこぎりびき)の刑の際に、囚人の身体を箱に入れ穴に埋めて、首だけ晒すこと。陸晒は地上に蓆(むしろ)を敷いて囚人をその上に座らせるのである。陸晒の刑には、付加刑として晒す場合と、本刑として晒す場合とがある。付加刑としての晒で注目すべき点は、幕府法上相対死(あいたいじに)とよばれた心中で、男女とも死に損なったとき、三日晒のうえ、非人手下(ひにんてか)(非人頭(がしら)に渡して非人にすること)にしたことである。本刑としての晒は女犯(にょぼん)の所化(しょけ)僧にだけ科せられる。所化僧は晒のうえ、本寺、触頭(ふれがしら)へ渡して、寺法によって処分させる。所化僧は寺持ちの僧に対することばである(寺持ちの僧の女犯の刑は遠島)。[石井良助]」
とある。
女犯の所化僧に準じて鮎の殺生の罪で晒すということか。
四十九句目。
さらされ者にうしろゆびさす
かたわなる捨子の命花散て 雪柴
江戸時代は捨て子が多く、孤児を収容する施設もなかったので、大概は死を待つばかりだった。芭蕉も『野ざらし紀行』で、
猿を聞人捨子に秋の風いかに 芭蕉
の句を詠んでいる。軍のない平和な江戸時代の人口は、捨て子によって調整されていたと言って良いのかもしれない。
五十句目。
かたわなる捨子の命花散て
首の木札に東風かぜぞふく 在色
捨子の首の木札もむなしい。
東風かぜに花散るは、
東風かぜに散りしく花も匂ひきて
わしのみやまの主をぞとふ
藤原定家(拾遺愚草)
に詠まれている。
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