2022年10月11日火曜日

 今日は松田のコキアの里に行った。七割がた赤くなっていた。富士山は雪がなかった。

 それでは「峰高し」の巻の続き。
 二表、二十三句目。

   草のまくらに今朝のむだ夢
 ばかばかと一樹の陰の出合宿   雪柴

 一樹の陰はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「いちじゅ【一樹】の陰(かげ)一河(いちが)の流(なが)れも他生(たしょう)の縁(えん)

  知らぬ者同士が、雨を避けて同じ木陰に身を寄せ合うのも、あるいは同じ川の水をくんで飲み合うのも、前世からの因縁によるものだということ。
  ※海道記(1223頃)西帰「一樹の陰、宿縁浅からず」
  ※平家(13C前)七「一樹の陰に宿るも、先世の契(ちぎり)あさからず。同じ流をむすぶも、多生の縁猶(なほ)ふかし」
  [語誌]仏教的な表現だが、漢訳仏典には用例がなく日本で作られたものか。「平家物語」(覚一本で四例)や謡曲に多く使われたため、中世・近世の文学に広まったと考えられる。」

とある。これをさらに拡大したのが「袖振り合うも他生の縁」か。十九世紀初めの歌舞伎に見られ、近代によく用いられる。
 出合宿(であひやど)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出合宿」の解説」に、

 「〘名〙 男女が密会に使う家。出合屋。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「草のまくらに今朝のむだ夢〈一鉄〉 ばかばかと一樹の陰の出合宿〈雪柴〉」

とある。出合茶屋とも言い、ラブホの原型とも言える。昭和の頃は「連れ込み宿」とも言った。
 旅先での行きずりの恋に一時だけの虚しい夢を見る。
 「ばかばかと」は「莫々」から来た言葉だとするといかにも盛んな様子だが、「ばか」にはネジがバカになるみたいに緩い、締まらなという意味もあり、『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は「間の抜けたさま。うかうかと。」としている。
 二十四句目。

   ばかばかと一樹の陰の出合宿
 他生の縁の博奕うちども     正友

 賭場も見知らぬ人同士が集まる場所で、その筋の人とお知り合いになって泥沼にはまって行く。
 二十五句目。

   他生の縁の博奕うちども
 公儀沙汰かりそめながら是とても 卜尺

 公儀沙汰はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「公儀沙汰」の解説」に、

 「〘名〙 おおやけの沙汰。表沙汰。公事沙汰(くじざた)。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「他生の縁の博奕うちども〈正友〉 公儀沙汰かりそめながら是とても〈卜尺〉」

とある。この場合は今の言葉でいう警察沙汰に近いか。ちょっと出来心で遊んだつもりでも、たまたま手入れがあってお縄になる。
 二十六句目。

   公儀沙汰かりそめながら是とても
 覚書見て行使番         一朝

 覚書(おぼえがき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「覚書」の解説」に、

 「① 後々の記憶のために書いておくこと。また、その文書。メモ。
  ※芭蕉遺状(1694)「杉風方に前々よりの発句文章の覚書可レ有レ之候」

とある。使番(つかひばん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「使番」の解説」に、

 「① 織田・豊臣時代の職名。戦時には伝令使となり、また、軍中を巡視する役にも当たった。つかいやく。
  ※太閤記(1625)六「うたせようたせよと使番母衣之者を以て仰付られしかば」
  ② 徳川幕府の職名。若年寄の支配に属し、戦時は軍陣中を巡回・視察し、伝令の役を果たし、平時には諸国に出張して、遠国の役人の能否を監察したり、将軍の代替わりごとに大名の動きを視察したり、江戸市中に火災ある場合は、その状況を報告するなどの任に当たった。旧称は使役。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「公儀沙汰かりそめながら是とても〈卜尺〉 覚書見て行使番〈一朝〉」
  ※浮世草子・武道伝来記(1687)二「福崎軍平といへる人、御使番(ツカヒハン)を勤め」
  ③ 江戸時代、将軍家の大奥の女中の職名。また、大名の奥女中付の女。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)四「女臈がしら其一人、つかひ番の女を頼み」
  ④ 使い走りの役をする人。
  ※俳諧・独吟一日千句(1675)第一「方方へ雪のあしたの使ひ番 鍬をかたげて孝行の道」
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「茶の間の役、湯殿役、又は使(ツカヒ)番の者も極め」

とある。
 ②の用例にされているけど、この場合は④で良いのではないかと思う。些細な訴訟沙汰に呼び出される。
 二十七句目。

   覚書見て行使番
 門外にかし馬引よせゆらりと乗  松意

 貸し馬に乗って颯爽と出て行くのは「② 徳川幕府の職名。」の方の使番であろう。
 二十八句目。

   門外にかし馬引よせゆらりと乗
 まはれば三里朝熊の山      在色

 伊勢の朝熊山の金剛證寺はウィキペディアに、

 「神仏習合時代、伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」[1]とされ、伊勢・志摩最大の寺となった。 虚空蔵菩薩の眷属、雨宝童子が祀られており、当時は天照大御神の化現と考えられたため、伊勢皇大神宮の奥の院とされた。」

とある。後の『春の日』の「春めくや」の巻三十句目に、

   傘の内近付になる雨の昏に
 朝熊おるる出家ぼくぼく     雨桐

とある。「ぼくぼく」は馬にも用いられるが、

 一僕とぼくぼくありく花見哉   季吟

のように徒歩にも用いる。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「直に通へば一里八丁、廻らば三里」(落葉集)」とある。「直に」というのは宇治岳道のことか。山の稜線を行く。「廻らば」は鳥羽道を行って一宇田を登る道か。
 宇治岳道は険しい徒歩のルートで馬で行く場合は一宇田へ回ったのだろう。
 二十九句目。

   まはれば三里朝熊の山
 曇なき鏡の宮の境杭       一鉄

 鏡の宮は近鉄朝熊駅に近い五十鈴川と支流の朝熊川の合流にあった。ウィキペディアに、

 「社名「鏡宮」は元来、朝熊神社の異称の1つであった。朝熊神社で白と銅の2面の鏡を奉安していたことに由来する名で、寛文3年(1663年)に朝熊神社の御前社として鏡宮神社が再興された。朝熊神社・朝熊御前神社と鏡宮神社は直線距離では100mも離れていないが、朝熊川を公道の橋で渡るとかなりの距離を移動しなければならなかった。そのため祭祀の便宜を図り、歩行者しか渡れない程度の幅の狭い橋が架橋された。これにより約200mの移動で済むようになった。」

とある。小さな川を挟んで目と鼻の先にありながら、かつては一度鳥羽道に戻らなくてはならなかったのだろう。三里は大袈裟だが。
 三十句目。

   曇なき鏡の宮の境杭
 訴状をかづくむくつけ男     志計

 「むくつけ男」は今の言葉だと「キモ男」だろう。横着して頭に訴状を乗せて川を渡る。
 これも数少ない下七の四三の例。
 三十一句目。

   訴状をかづくむくつけ男
 御白洲へ御息所やめされけん   正友

 御白洲(おしらす)はこの場合、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「白州・白洲」の解説」の、

 「⑥ (白い砂が敷かれていたところからいう) 江戸時代、奉行所の法廷の一部。当時は身分により出廷者の座席に段階が設けられており、ここは百姓、町人をはじめ町医師、足軽、中間、浪人などが着席した最下等の場所。砂利(じゃり)。
  ※浮世草子・本朝桜陰比事(1689)四「夜中同じ事を百たびもおしへて又其朝もいひ聞せて両方御白洲(シラス)に出ける」
  ⑦ (⑥から転じて) 訴訟を裁断したり、罪人を取り調べたりした所。奉行所。裁判所。法廷。
  ※虎明本狂言・昆布柿(室町末‐近世初)「さやうの事は、此奏者はぐどんな者で、申上る事はならぬほどに、汝らが、お白砂(シラス)へまいって直に申上い」

であろう。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『恋重荷(こひのおもに)』の荘司の俤としている。恋重荷はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「恋重荷」の解説」に、

 「臣下の者(ワキ)が下人を従えて登場、御苑の菊作りの老人(前シテ)が女御(にょうご)(ツレ)に恋をしていることを述べ、老人を呼び出させる。作り物の重荷を持って百回も千回も回ることができたら、ふたたび女御の姿を拝ませようという提示に、老人は力を尽くして挑戦するが、巌(いわお)を錦(にしき)で包んだ重荷が上がろうはずもない。絶望と恨みに老人は自殺する。後段は、女御の不実を責める恐ろしげな老人の悪霊(後シテ)の出現だが、あとを弔うならば守り神になろうと心を和らげて消える。恨み抜いて終わる『綾鼓』とは、和解の結末が大きく異なっている。試練の米俵を楽々と担ぎ、主人の娘を手に入れる老翁(ろうおう)を描いた狂言の『祖父俵(おおじだわら)』は、『恋重荷』のパロディーである。」[増田正造]

とある。
 江戸時代の世だったら裁判になるということか。ストーカーに優しい時代だった。今なら逆だろう。
 三十二句目。

   御白洲へ御息所やめされけん
 題は今宵の月にまつ恋      松臼

 御白州を単なる白砂を敷き詰めた所として、邸宅の庭とする。歌会に御息所が召される。
 三十三句目。

   題は今宵の月にまつ恋
 なく泪持と定むべし雁の声    一朝

 歌合として「なく泪」の歌と「雁の声」の歌を持(ぢ:引き分け)とする。
 三十四句目。

   なく泪持と定むべし雁の声
 胸よりおこす霧雲のそら     雪柴

 雁は秋の霧に渡ってきて春の霞みに帰って行く。通ってくるようにと胸の恋心が霧を生み、愛しい人を通わせる。泣いてなんていられない。
 霧雲は、

 秋来ての見べき紅葉を霧曇り
     佐保の山辺の晴るる時なし
              大伴家持(家持集)

の用例がある。
 三十五句目。

   胸よりおこす霧雲のそら
 大竜やひさげの水をあけつらん  在色

 ひさげはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「提・提子」の解説」に、

 「〘名〙 (動詞「ひさぐ(提)」の連用形の名詞化。鉉(つる)があってさげるようになっているところからいう) 鉉と注ぎ口のついた、鍋に似てやや小形の金属製の器。湯や酒を入れて、さげたり、暖めたりするのに用いる。後には、そうした形で、酒を入れて杯などに注ぐ器具にもいう。
  ※宇津保(970‐999頃)蔵開中「おほいなるしろがねのひさげに、わかなのあつものひとなべ」

とある。
 空に雲霧がかかっているのは八大竜王が胸元に提子を抱えて水を注いでいるからだ。

 時によりすぐれば民の嘆きなり
     八大龍王雨やめたまへ
              源実朝(金槐和歌集)

の歌にも詠まれている。
 三十六句目。

   大竜やひさげの水をあけつらん
 文学その時うがひせらるる    卜尺

 文学は「もんがく」とルビがあり、文覚のことであろう。文覚は伊勢から伊豆へ向かう時に嵐に遭った時、

 「『竜王やある竜王やある』とぞ呼うだりける。『何とてかやうに大願起こしたる聖が乗つたる船をば、過またうとはするぞ。ただ今天の責め被ぶらんず竜神どもかな』」

と竜を𠮟りつけ、嵐を鎮めたという話が『平家物語』にある。
 以後、竜をテイムしてうがいの水を汲ませた、とする。

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