『俳諧問答』の続き。
「実ハ師の恩に寄てあら野の時を得たるやうなれ共、今日見る時ハ、時の風を得ざると見えたり。ひさご・猿ミのノ時代、猶以右ニ同じ。慥ニ是底のぬけぬ証拠也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110)
「実」は「虚」あるいは「花」に対する言葉で、実は不易、虚は流行と考えてもいい。
荷兮・越人は蕉風確立期の古典回帰の時代の門人で、古典の本意はよく学んでいる。ただ、その後のより今のリアルな俳諧へと変わっていったとき、取り残されてしまう。
「今世上に遺経の俳諧の風ハ、天下ニ三四人ならでハあるまじ。
伊勢の支考ハ、後猿の時底をぬきて流行すれ共、難じていはば実少すくなし。
しかりといへ共、世間門人と目を同して語る人ニてなし。此人慥ニ血脈相続して、当時諸門弟の中肩をならぶる人なし。
されどかれが質不実に謟へる心あれバ、行末覚束なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110)
「謟へる」は「うたがへる」と読む。
支考は美濃の人だが、この頃は伊勢山田にいたようだ。翌元禄十一年には『伊勢新百韻』が刊行される。後に美濃に戻り、後に美濃派と呼ばれるようになる。
『風俗文選』の「作者列伝」にも、「中遇居于勢州山田後帰故国作俳書数篇」とある。
支考は元禄七年五月の「牛流す」の巻の六句目で、
月影に苞(つと)の海鼠の下る也
堤おりては田の中のみち 支考
と、「苞(つと)」に「堤(つつみ)」、「下る」に「おりて」と類義語で付けている。
また十八句目では、
道もなき畠の岨の花ざかり
半夏を雉子のむしる明ぼの 支考
と、マムシグサに似ている半夏が蛇に似ているところから雉が間違って啄ばむという突飛な空想を見せている。
この年の秋の「この道や」の巻の第三でも、
岨の畠の木にかかる蔦
月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て 支考
と、「岨(そば)の畠」に「蕎麦のこぼれ」と「ソバ」つながりでありながら、駄洒落にもならず、掛詞でもなく、取り成しにもなってない。何となく繋がっているだけで、蕎麦の花を照らす月の美しい情景にしている。
また、「白菊の」の巻の三十三句目では、
老の力に娘ほしがる
餅ちぎる鍋のあかりの賑さ 支考
と、前句の「力」を餅に取り成して、爺さんの餅を娘がほしがる句にしてしまう。
支考の付け句は変幻自在でまさに「底を抜く」ものだった。これこそ芭蕉の血脈と言っていい。
ただ、発句の方はそれほどでもなく、「実少(すこし)すくなし」というのはそういうことだろう。
才能はあるけど、疑い深くて誠実さに掛けていたのか、その後伸び悩んだ。
「ミのの大垣千川といふ者此風也。次ニ彦根門人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110)
美濃の千川も「遺経の俳諧の風ハ、天下ニ三四人」の一人だという。
「彦根門人」は自分のことか。
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