今日は東日本大震災の日で、みんな3・11は忘れてないが、3・10の東京大空襲がその分遠くなってしまったか。子供の頃はラジオで一日その特集をやってたりした。
大事なのは忘れないことではなく、美化しないことだ。
復興が遅れていると批判するのは簡単だが、もとから復興なんてそんな簡単なもんではない。産業を興し、人を集め、地方を活性化する妙案があるなら聞いてみたい。
それでは『俳諧問答』の続き。
「故ニ眼ひがミ、心俗に落て、古き事、又ハ面白からぬ物も、ふとおかしとていひ出す。
去ル比、予が撰集の時、猿の喧嘩といふ句、面白しとて自慢し越したり。猿の喧嘩曾て新ミなし。此方とらざるゆへに、加賀の集に入たり。五三年もへだて、俳諧上洛の後、立かへり見侍らバ、此事明にしるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.108~109)
岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎の註には、北枝編『喪の名残』(元禄十年刊)の、
春日に詣で
秋風や猿も梢の小いさかひ 正秀
の句だという。
許六の撰集というのは『韻塞』だと思われるが、これも元禄十年刊だから、この頃の句であろう。
句は「秋風に猿も梢の小いさかひや」の倒置で、「も」は並列ではなく「力も」であろう。「秋風に猿の梢の小いさかひもや」の倒置と見てもいい。
「や」と疑っているので、猿の梢の小いさかいは必ずしも見たわけではない。猿の声が聞こえてきて「小いさかいもあるのかな」と推測する体だ。人の世も世知辛いが猿の世もと気遣う辺りには「細み」が感じられる。
ただ、秋風に猿の叫ぶ情は古来漢詩に歌われてるもので、その意味で新味なしと言えるかもしれないが、それを猿の声ではなく「小いさかひ」にしたところに新味があるかどうかは人によって意見が分かれたかもしれない。
筆者は悪くないと思うが、ただ芭蕉の「猿に小蓑を」の句があるから、それと比較されてしまうと苦しい。
「五三年もへだて、俳諧上洛の後、立かへり見侍らバ、此事明にしるべし。」つまり五年もすれば忘れ去られているだろうというのは、おそらく正しかったのだろう。岩波文庫の『蕉門名家句選』にも取られていない。
「生れつき千兵ヲ破る勇あり共、士を使ふ器なけれバ、宗匠の器なし。
勇ハ樊噲にもあたるといへ共、善悪のわかれざる人ハ、将の器ハなし。
此頃の集の俳諧を見るに、炭俵・別座敷の風一句もなし。
今世間の人、後猿の俳諧ハかるミありて面白し、これ也とて、筋なき不用の句を出せり。別座敷・炭俵の風熟吟せざる人、いかで後猿の風に飛入事を得むや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.109)
樊噲(はんかい)はウィキペディアに、
「泗水郡沛県の人で、剛勇の人だったという。もとは犬の屠殺業をしていた。劉邦(高祖)の反秦蜂起に加わり、生涯仕えて武勲を挙げ、咸陽に入って、豪華な財宝に目を眩んだ劉邦に対して、張良とともに諫めた。鴻門の会でも項羽から身を救うなど活躍する。秦打倒の功績で賢成君に封じられた。また決起以前より劉邦の妻呂雉の妹呂嬃を娶っていたため、将軍の間でも王室の信頼は厚かった。」
とある。もちろん勇だけでなく、多くの士を使う器だったし、善悪もわきまえた名将だった。
「別座敷・炭俵の風熟吟せざる人、いかで後猿の風に飛入事を得むや。」とあるのは、許六自身の阿羅野・猿蓑を熟読した経験によるものだというのはわかる。ただ、芭蕉はあえてそういう旧習に染まってないものを用いることが多い。もっとも、凡兆、野坡のように使い捨てみたいな所はあるが。
新しい風を試すには古い風に染まっていない無垢な才能を見つけ出し、その初期衝動を開放させる方がいい。ただ、そこには芭蕉と違い、長年にわたって蓄積された技術がないため、ひとたび初期衝動が衰えれば凡庸な作者に転落する。
「しかし一向ニ成まじ共いひがたし。発明の人あらバ、直入の俳諧もあるべし。大方ハ成まじき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.109)
古い技術を熟知してなくても、新しい風に直に入ってゆくことは出来る。
「冬の日・あら野の時、段々門人其時の風を得たりといへ共、次第に流行なき故に底を入られたり。
予察し見るに、荷兮・越人、あら野の時、真ンのあら野の風を得ざると見えたり。今日あら野を見るに、炭俵・別座敷のかるミ、其時より慥ニあらハれ、時代の費のミニして、炭俵の趣き急度すハれり。其時識得せば、何ぞ翁と同じく流行せずといふ事あらんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.109~110)
一つのスタイルは繰り返されると次第にマンネリになるのは言うまでもない。それを「底を入られたり」という。今日でも「底が浅い」という言い方はする。底を抜いて、更なる深みに進まなくてはならない。
ただ、あとから見てあの頃はまだ底が浅かったと思うのは簡単だが、底を抜いて深みに到達した時、更なる深みが見えている人は稀だ。まあ、芭蕉はそれが見えていたのだろう。
荷兮・越人は自ら『冬の日』『春の日』『阿羅野』で底を抜いてきたところに満足してしまったのだろう。人は一年一年確実に歳を取って行き、更なる底が見えなければそこで守りに入ろうとする。
荷兮や越人にいえることは許六にもいえただろう。芭蕉亡き後、許六もまたその先の更なる深みが見えていたとは思えない。それが見えてたら、許六は芭蕉を超えて新風を興していたであろう。
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