今日は六義園のしだれ桜を見に行った。人も多かったが大きな木が満開で、まさに「灰汁桶の」の巻の三十五句目、
糸桜腹いっぱいに咲にけり 去来
だった。この句も花の定座で「花」ではなく「桜」にしたという意味では、「底を抜いた」のだろう。
そのあと染井吉野発祥の地、旧古河庭園、飛鳥山公園を散歩した。ソメイヨシノはまだ二分咲きくらいだが、飛鳥山公園の花見は盛り上がっていた。
それでは『俳諧問答』の方に戻るとしよう。
「通書の中ニ、切字。古事。古詩・古歌の用る法など、かれこれのせられたり。
師説同じ趣をとき給ふといへ共、千変万化して天地に独歩の人なれバ、今日の論、明日ハ同じ事いはず。
先生のきき給ふ所、予がきく所、少々違ひハあるらん。なれ共、小耳ニはさみ置所、予が発明自得の下ニ記ス。
あハれ閑暇を得て、先生の伝授し給ふ処、幷先生の発明を合してききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.111)
ここからしばらく、まず切れ字について論じてゆくことになる。
ただ、芭蕉の説も変わってきているので、先生(去来)が聞いたのと予(許六)が聞いたのでは違いがあるので、ここでは予(去来)が小耳にはさんだことと自得したことを記すことになる。
ここで少々飛ばして、実例のある所から入ることにする。
「一、初蝉上巻ニ、
鶯の噂さや舌も引入れず 大ツ 箕香
此句、噂さやと切て、又舌もといふ珍敷つづき也。鶯の噂の舌も引入れず、といふ事也。心ハかくれたる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.113)
句は「鶯の噂(うわさ)の舌も引入れずや」の倒置で、「や」を「の」の位置に持ってきたものだ。
誰かが鶯を聞いたという噂話は黙っていることが出来ない、という意味か。「心ハかくれたる事なし」というから、当時の人ならすぐ分かる句だったのだろう。
「其分ニ見やりて捨ツ。切字さへ入るれバ、発句と心得ぬる作者幷撰者同前と見えたり。是にてもきこえるといへば、是非なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.113~114)
『初蝉』は風国の撰で、元禄九年刊。
末尾の「や」を係助詞的に前に持ってきて倒置にする事自体は間違った用法ではない。ただ、持ってくる位置が問題で、「噂さや舌も」は変だということだ。「鶯や噂の舌も引入れず」だと鶯が聞こえたが噂の舌もになってしまうし、「噂の舌や」でも変だし、確かにどこに持ってきても納まりが悪い。
これは「鶯の噂の舌も引入れずや」に、倒置にして強調すべき語句がないせいなのかもしれない。「鶯の噂」は意味的に一塊だからここに「や」を入れて分断すると意味側からなくなる。「舌も引入れず」も一塊だから、強いて言えば確かに「噂の」と「舌も」の間ということになる。
難しい所で、ここは「ず」の終止形を切れ字として「の」のままでよかったのかもしれない。
「一、上巻ニ、
何風も吹ぬ日落る椿哉 大ツ 梅主
てにはよろしからず。やとして、哉ととめぬハ新古同じおきてなれバ、何とうたがひて、哉とハとまるまじ。
椿哉とハ治定の哉なれ共、此句全体うたがひの句也。「しづ心なく花のちるらん」といへる歌にて、一句のうたがひしれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114)
句は何一つ風も吹いてないのに椿は落ちるんだなあ、という意味で、
ひさかたの光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ
紀友則
の歌と似ている。
「何風も」の「何」はここでは疑いではなく反語で、末尾の「哉」も治定で疑ってはいない。
紀友則の歌はこんな長閑な日に何で散ってしまうのだろうか、と散ってしまう花の心を疑っているだけで、花が散ったこと自体を疑っているのではない。
これに対し、「何風も」の句は風も吹いてないのに椿が落ちるという事実を言っているにすぎない。「風もないのに何で散ってしまうのかな」という疑いの心は表に見えていない。
許六が「此句全体うたがひの句也」というのはあくまで句の裏なので、表向き治定の句で問題はないように思える。
「切字二ツ入てきこえぬ故に、二ツ入ぬものと古来定めたるも、かやうの事也。何といふ字をぬきても、又哉と云字ぬきても、一段心きこえて、しかも発句の姿を得たり。
切字ハ発句の姿を付べき為也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114)
たとえば、
いづく時雨傘を手に提げて帰る僧 芭蕉
の句であれば、「傘を手に提げて帰る僧」という事実に対して「いずく時雨」と現前しない時雨を疑うのだから、「いづく」と疑ったあと、帰る僧を疑うことは出来ない。
この場合は「傘を手に提げて帰る僧はいづくで時雨にあひしや」であるため、「いづく時雨」の「いづく」が切れ字となり、句は体言止めになる。
これを
いづく時雨傘を手に提げて僧は帰るや
だと、時雨も疑えば僧の帰るのも疑うで、事実が何もなくなる。
いづく時雨傘を手に提げて僧は帰るなり
だと、意味的には問題ないが、倒置を元に戻したときに「手に提げて僧は帰るなり。いづくで時雨にあひしや。」と二つの文章に分かれてしまう。
切れ字を二つ使うというのは、一句を一つの文章ではなく二つの文章に分断してしまうので嫌われたのだろう。
これを
時雨けり傘を手に提げて帰る僧
とするなら問題はない。
時雨けり傘を手に提げて僧は帰るや
と疑われてしまえば、「帰るべし」と答えるしかない。
時雨けり傘を手に提げて僧は帰るなり
だと二つの文章になる。
何風も吹ぬ日落る椿哉 梅主
の句に戻るなら、この「何」は哉を強調するだけで二重の治定のくどさはあるものの、文章を二つに切ることはないので、問題はないように思える。
表にない「うたがい」を読み取ってしまったところが問題ではないかと思う。
風もない日に何落ちる椿哉
だと「何」は何故の意味で疑いになり、「哉」の治定との食い違いが生じてしまう。この場合は許六の論の通りだ。
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