もともと言語(ラング)というのは存在しない。無数の発話(パロール)の積み重ねが共通の記憶を形作ったとき、それがあたかも個々の発話を超えた言語(ラング)が存在するかのような幻想を与える。
だからどこの国でも言葉はその発話の範囲で独自に発展し、方言やスラングが形成されるし、むしろその方言やスラングや業界言葉の複雑に共存する状態こそが言語の本来の姿だった。
近代化以前の社会では世界中がそのような状態だったと思う。
その中で地域や職業や階級を越えた共通語はというと、芸能の言葉だった。
芸能は旅芸人によって地域を越えて広がり、その言葉をいろいろな地域の人が覚え真似する。そこから共通の言語が生まれる。
中世の共通語とされた雅語は八代集の和歌の言葉だし、中世の末期から江戸時代にかけては謡曲の言葉も共通語となった。明治の初めでも田舎から出てきた人が会話する時に謡曲の言葉を使ったと言われる。
貞門の俳諧は雅語を基調としていたし、談林の俳諧は謡曲の言葉が多用された。そこでひとたび俳諧が全国規模で流行すると、今度は俳諧の言葉が共通語として通用するようになってくる。「軽み」は本来そうした共通言語の革命だったのではないかと思う。
近代に入ると国家が国語を定め、学校教育を通じてそれを普及させるようになる。ただ、実際にはその標準語はほとんど文語化している。
実際に庶民が話す言葉は、明治の頃には落語や講談の言葉だっただろうし、戦後になってもテレビやラジオで芸人の語る日本語が共通語となっている。さらにはJ-popの詞や映画や漫画やアニメの言葉も共通語の一部となり、最近ではネットの言葉も影響を与えるようになっている。
それに対し、文科省の定める標準語は教科書に書いてある文語にすぎない。実際に標準語で会話をする人は皆無だ。
芭蕉はこうした言語の性質をある程度自覚していたのではないかと思う。ただ、門人はなかなかそれについていけなかったか、許六の「軽み」の理解も表面を撫でた感じがする。
「又精進などいふ事を句作りニせば、むかしハ、
月に二日は親の精進日
只精進日ハかたつまりけり
などせし。これあたらしく俳諧といふ事なし。
ふるひから次第に上る精進日
といふこそ、あたらしけれ。又あたらしミといふハ、
祖父祖母の精進ハ間にまびかれて
トいふこそ、あたらしミと申侍れ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.105~106)
「精進日」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「祖先の忌日など、精進をすべき一定の日。斎日。」
とある。
「月に二日は親の精進日」はいわゆる月命日で、weblio辞書の「実用日本語表現辞典」に、
「ある人が亡くなった日付の毎月の呼び名。「命日」とはある人が亡くなったその日の事であり、年に1回であるが、「月命日」は命日を除き1年に11回ある。」
とある。
「只精進日ハかたつまりけり」の「かたつまり」は肩が凝るということか。
いずれもそのまんまを述べただけで、
つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼
にがやきのさざゐにふたのひつ付て
と共通している。
これに対し、
ふるひから次第に上る精進日
「ふるひ」は「経る日」で「ふるとし」が去年を意味するように「昨日」のことか。前日になってようやく、普段は忘れていて、前日になって明日は命日だと意識する。あるあるだ。
こうしたあるあるは炭俵の体といってもいいもかもしれない。
祖父祖母の精進ハ間にまびかれて
親が亡くなると祖父や祖母の精進日は忘れ去られがちになる。これもあるあるネタといっていいだろう。
残念なのは許六が、
喧嘩のさたもむざとせられぬ
大せつな日が二日有暮の鐘 芭蕉
の句を知らなかったことだ。元禄七年九月の『猿蓑に』の巻のニ十三句目だが、この一巻は『続猿蓑』所収であるため、許六がこれを知るのは一年後のことだ。
「精進」や「精進日」という言葉を直接出さずに「大切な日」で匂わせる匂い付けの句だ。
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