今日は午前中雨が降った。午後から天気は回復し、ソメイヨシノもまた一段と開いたようだ。街路樹が桜のトンネルになりつつある。
それにしても、蕉門の俳諧のてにはの細かなニュアンスというのは、あの時代の言葉のネイティブではないので、なかなかわかりにくい。
当時の人はダイレクトに理解できたことでも、今日ではただ推測するしかない。
どんな言語の習得でも、結局文法学習だけでは駄目で、とにかく数多くの用例に接し、感覚的に鍛え上げていくしかないのだろう。
それでは『俳諧問答』の続き。
「文章に、「何久敷不能対面」と書てハ、何と云字きこえず。歌・俳諧ハ文章也。俳諧平話よろしといへ共、吟味とげての上ニ用ざる事ハ、つたなき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116)
「何久敷不能対面」は漢文っぽいが「久敷」って漢語なのか?ネットで見ると日本の漢文では習慣的に使われてるようだ。
「何」が世俗の平話で俳諧にふさわしくないなら、「久敷」も日本語の「ひさしく」の当て字で本来の漢文ではないのではないか。
「何の木の花ともしれぬ匂ひ哉
といへるハ、何の字、「匂ひ哉」と切字重畳せざるとおもへり。「花ともしれぬ」とまハり、「何の花の」とまハるゆへに、きこえ侍る也。「何風も吹ぬ日落る椿哉」とハまハらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116)
これは芭蕉の句で、
何の木の花とはしらず匂哉 芭蕉
が正しい。許六の記憶違いか。
この句は省略されていて、「何の木の花とはしらず(に嗅いでいる)匂哉」になる。匂いは事実だが、「何の木の花とはしらず」は主観的な言葉で、哉で治定するにふさわしい。
許六の言いたいのもそこで、「匂ひ哉」に「花とも知れぬ」が掛かり、それにさらに「何の花」と掛かるため、「何の木の花ともしれぬ匂ひ」が一まとまりの言葉になり、その全体を「哉」で治定しているから意味は明瞭だということだ。
「芭蕉葉ハ何になれとや秋の風
是「何」といひ、又「や」といひ候(候は文庫版では合略仮名で表記されている、フォントなし)へ共、「何になれとや」ハ、何といふ字のてにハの中ニて、外の言葉なし。かやうの発句いくらもあるべし。論ずるにたらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116~117)
「何」と「や」は二つの切れ字ではなく、「何になれとや」で一つの言葉だということに異論はあるまい。
「此次、さるミの何事も無言の中ハしづかなりの論、書入べし」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.117)
文庫版の注には「この小書「板本」、「随本」にはなく、「五本」「去本」等には本文並みに書入れてあり、「露本」は小書にしてある。」とある。
『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻の、
はきごころよきめりやすの足袋
何事も無言の内はしづかなり 去来
の句について何事か書こうとして、そのことをメモしていたように思われる。
「何事も」は疑問の「何」ではないので、切れ字にはならない。それに付け句だから本来切れ字はなくてもいい。
「何事」といえば、
何事ぞ花みる人の長刀 去来
という発句もある。
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