東京の都心で桜(ソメイヨシノ)の開花が発表された。これは靖国神社にある標本木の五、六輪の開花を以て決まるという。
折から今日は満月で如月の望月の頃。でもまだ死にたくない。「死にたがり」は実は「生きたがり」で、生きようという気持ちが強いほど、挫折した時に強力に死を意識してしまうだけだ。西行法師も七十三まで生きた。
それでは「鰒の非」の巻の続きを挙句まで。
二十九句目。
あはれげもなき講の題目
三条の橋から西は時雨けり 凉葉
東海道の終点でもある京都三条大橋の東には、日蓮宗京都八本山の一つの妙傳寺がある。東海道を旅する人にはお馴染みだったのかもしれない。
三十句目。
三条の橋から西は時雨けり
茶屋の二階は酒の楼閣 芭蕉
三条大橋の南東には祇園があり、茶屋が立ち並ぶ歓楽街だった。二階で飲食する。
二裏に入る。三十一句目。
茶屋の二階は酒の楼閣
うつくしき貌も丈より年ふけて 此筋
遊女はいろいろ苦労が絶えないのか、まだ若いのに老けた貌をしている。
三十二句目。
うつくしき貌も丈より年ふけて
恨の文をつくる琴の手 千川
一巻に恋がないのも何なので、遅ればせながらここで恋に転じる。
琴を出すことで遊女から王朝風の物語に転じる。特に出典のなさそうなところが「軽み」だ。
三十三句目。
恨の文をつくる琴の手
花さけば又来てのぼる塚の上 芭蕉
前句の「恨み」を死別の恨みとした。
三十四句目。
花さけば又来てのぼる塚の上
馬荷にはさむ蓬たんぽぽ 凉葉
前句の花をタンポポの花とした。塚もここでは一里塚か。
荷物を載せた馬を引く人が、ふとそこに蓬とタンポポをみつけ、少し摘んでゆく。蓬もタンポポも食用になる。自分の家に持ち帰る分であろう。
三十五句目。
馬荷にはさむ蓬たんぽぽ
諸雲雀夕日おしげに囀りて 左柳
蓬やタンポポを摘んで帰る馬曳きに、春の長い日も暮れようとしている。雲雀が名残惜しそうに囀っている。
挙句。
諸雲雀夕日おしげに囀りて
ただよきほどに春風ぞふく 主筆
春の夕暮れの景色に春風を添えて主筆が締めくくる。さあみんな、風を感じることが出来たかな。
生きてゆくことは決して楽なことではない。
ただ人間の生存競争は孤独ではない。一対一の腕力の戦いではなく、あくまで多数派工作の戦いだからだ。
多数派の側について安泰な人生を送るには、それなりに妥協したり折れたりしなくてはならないことも多い。だけどそんな子供頃思い描いた理想とは程遠いふがいない自分に、心の中を吹きぬけてゆく風の音を感じる。
それはハイデッガーなら「良心の声」とでも言う、自己(現存在)の全体性への回帰を求める声だ。そのかすかな声なき声に耳を傾けるなら、今の世の中をもっとより良いものにしてゆくこともできるだろう。
心の中の風の音を聞き、風の声は言葉になり句となる。そしてその声を共有できる集まりがある。それが俳諧だ。
風はその時々で変風変雅あるものの、その元は一つ、風雅の誠あるのみ。
それが師の血脈でもある。ただ、その相続は古典に感動し、それを今の言葉で作ろうとするなら、誰の中にも同じ血が流れている。
芭蕉の血脈も、芭蕉の句に感動し、芭蕉のようになろうとするなら、そこに自ずとあらわあれる。それでいいのではないかと思う。無用な派閥争いをすべきではない。
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