apple musicでは普通に電気グルーブが聞けたので、今日は一日車の中で流して走った。懐かしい曲、忘れてた曲、初めて聞く曲などいろいろあった。
出演者の一人が何か悪いことをするとその作品そのものをお払い箱にするのは、いわゆる連帯責任と同じで、結局は「あいつさえいなけりゃ」という恨みを生む。
そして誰か何かやらかしやしないかと常に周りに疑いの目を向け、相互監視で人をがんじがらめに縛り、そこからはみ出る人間をいじめて排除しようとする。これは日本の社会の闇の部分だ。
蕉門にもいじめがなかったとは言えないだろう。路通は明らかにそれだった。他にも惟然や支考が芭蕉没後に旅に出たのも、京に居づらい何かがあったのだろう。支考は花屋では浮いていたようだし。
芭蕉没後、京と大津の門人が芭蕉の葬儀の中心となることであたかも芭蕉の継承者であるかのように振る舞い、その対抗勢力として許六・支考・野坡・千川がいたとすれば、許六がなぜこの四人を選んで芭蕉の血脈の相続者だとしたのか分かるような気もする。これは去来包囲網と言ってもいいだろう。
蕉門の門人達も人間だし、風流だけで生きてたわけでもあるまい。そういう下世話な部分もあっただろう。
ところでそもそも論としてその血脈って何だと考えた時、それは人間の普遍的な情の根源への問いになる。今日は『俳諧問答』を離れて、それを少し考えてみよう。
まず一つの仮説から入るが、出る杭は打たれる仮説から入ってみよう。
多くの動物は個々の能力によって上下関係が決まる。腕力は重要だが、それでけでなく知力も必要だ。ただ、たとえ群れをなしていても、個々の上下は一対一の勝負で決まる。これが全体として見たとき、あたかも最強の者から最弱の者まで直線的な序列があるかのようになる。これが順位社会と言われるものだ。
これに対し人間は共感能力を発達させたため、一対一で戦うのでなく、二人、三人、もっと大勢で連合して戦えばどんな強い者でも倒せることを知ってしまう。そうなると一対一の勝負での強弱は無意味になり、生存競争は多数派工作の勝負になる。
そこで人間は多数派工作に適した性質を進化させる。体力や一対一での喧嘩の強さはもはや重要ではない。共感能力に優れ、他人の欲しい物を察知してそれを与えたり、その一方で敵に対しては一番やって欲しくないことをやる能力を発達させる。優しさと意地悪は表裏一体に進化する。
微笑の表情も、言語によるコミュニケーションも、気前のよさも、弱者をいたわる心も、すべて多数派工作に役に立つ。
もちろんこれらの人間の美徳が多数派工作の「ために」進化したというのはラマルキズムだ。本来そんなものを意図したわけではない。ただ結果的に多数派工作に役立ち、生存競争に勝ち抜く結果になったにすぎない。
有限な地球に無限の生命が繁栄できるわけでもなく、大地の恵みが一定でそこに自ずと定員があり、それに逆らって人口は等比数列的に増えようとすれば、そこはいつでも過酷な生存競争の世界になる。
今日では限られた大地から最大限の生産性を引き出す技術が発達する一方、人口は地球規模で少子化によって頭打ちから減少に転じつつあるため、過酷な生存競争はもはや過去のものになろうとしている。だが、それはここ数十年のことで、特に近代化以前の世界はマルサス的な状況にあった。
人間は他人を思いやり、限りなく慈悲深くなれるにもかかわらず、大地に定員が有る一方で、人口は常に増加の圧力がかかれば、椅子取りゲームになる。
人は生きるために多数派に何とかもぐり込まなくてはならない。だが、人は一人一人みんな違う。そこで他人に合せ、自分を殺しながら生きてゆかざるを得なくなる。これは取り引きだ。
自分のある種の欲求を断念する代わりに、自分の居場所を確保する。これは生存の取り引きだ。
人は生まれたときはほとんど無力な存在で、大人が殺そうと思えば抗すべき手段はない。それこそ赤子の手をひねるようなものだ。大人の側に「生かす」という選択がなければ死ぬしかない。これは絶対的な上下関係だ。そのなかで最初に学ぶのは服従の選択だ。
やがて物心ついたころには子供は自分の欲求を周囲の大人達にぶつけるようになる。ここから生存の取り引きが始まる。
その欲求の多くは挫折し、子供は生きるために大人達の与える様々なしきたりや価値観を受け入れる。そうしてやがていっぱしの社会人になる。
ただ、生存の取り引きは人が生きてゆく限りどこまでもついて回る。会社で、家庭で、地域で、様々な場面で自分の意見を通そうとしては妥協を繰り返す。打ちのめされ傷つき疲れ果てることもあれば、より良い生活を勝ち取ることもある。
挫折し、断念した欲求はただ抑えているだけで消えるわけではない。その欲求はいつでも風のように心の中を吹きぬけてゆく。本当の自分に戻るために。
ある時人は決断するかもしれない。これまでの取引の結果である今の人生を清算して、心の中の風の趣くままに新しい人生をはじめようと。それはまさに「旅立ち」だ。ただ、それはそれで様々な苦難が待ち受けている。
本当の自分になろうと、絶えず取り引きを繰り返し、そのつど苦難にぶちあたり、悩み傷つく。それでもなおかつ自分自身でありたいと、それが「風」雅の種であり、風雅の誠だ。
それを俳諧の談笑の中で表現し続けること、それが「血脈」だ。
西洋では人は生まれながらに生存権を持つことになっている。ただ、現実は違う。生まれたばかりの赤子を殺すのはいともたやすいことだし、赤子はそれに抗すことはできない。生存権は自明ではない。
西洋の文明は強力な権力によって生存権を守るシステムを作ろうとしてきた。しかし強力な権力は諸刃の剣だ。
日本人は人は生きるのではなく「生かされている」ものだと考える。これは無力な赤ん坊の頃から、周囲の圧倒的な数の人間に対し自分はたった一人と明らかに不利な環境の中で学んできた事実だ。
生存の取り引きはどこまでも個と個の取り引きであり、抽象的な「社会」との契約ではない。
たとえば労働条件を良くするために労働組合に入るにしても、それは個人の決断だし、組合に加入すれば、今度はその組合の上司との間で延々と生存の取り引きが繰り返されることになる。そこでは方針への異議申し立てや不服従や脱退などの選択肢と、組合に籍を置くことのメリットと常に秤にかけながら取り引きを繰り返すまでだ。それは契約ではない。不断の取り引きの連続だ。
社会契約説は生存の取り引きの現実的なやりとりをかなり抽象化し、単純化したものだ。単純なモデルは複雑な事象を支配できない。そこに西洋の人権思想の限界がある。
結局どんな社会でも人は結局一人だし、孤独に生存の取り引きを繰り返す。風雅の誠はその取り引きの中で生まれる。だからそれを理論化することは出来ない。だが、共感することは出来る。それが血脈の相続だ。
許六はそれを狭く捉え、一種の家元制に近いものにしてしまったが、本当の血脈の継承は、ただ先行する芸術作品に感動し、自分もまたそのようなものを作ろうともがくなかで、自分もまた他人を感動させた時初めてそれに成功するものだ。
今日の大衆芸術もそのように作品に感動した人が作者になり、その感動をまた誰かが引き継ぐことによって受け継がれてゆく。これが血脈継承の真の姿ではないかと思う。
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