『俳諧問答』の続き。
治定(じじょう)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」を見るとこうある。
1 決定すること。落ち着くこと。〈和英語林集成〉
「連歌はなほ上手になりてのちも善悪をひしと―する事はかたし」〈連理秘抄〉
2 きまりきっていること。また、そのさま。必定(ひつじょう)。
「それがしは、君を御代に出だし申すぞ。―なり」〈狂言記・七騎落〉
3 連歌・俳諧で、推敲の結果、句形が決定すること。また、切れ字により1句の表現を完結すること。
「『や』と言ふ文字は―の切れ字」〈伎・名歌徳〉
治定は断定ではない。いろいろ疑いがありながらも最終的に決定することを言う。
付け句では、出勝で誰かが句を言い出ると、それを吟味して、あるいは他の案を考慮したり、若干語句を変えたりして最終的にこの句で行こうというのが治定だ。
「哉」が治定だというのは、哉で言い切る言葉がたいてい主観的な内容で、比喩の場合が多い。
木のもとに汁も膾も桜かな 芭蕉
の句は、汁や膾が物理的に桜になることはないが、心情的には桜も同然だということで、あえて断定を避ける感じで「なり」ではなく「哉」になる。
八九間空で雨降る柳かな 芭蕉
の場合も、柳を雨に喩えたもので、その柳の大きさもきっちり計って八九間ということではない。やや大袈裟に木より遥かに大きな範囲で雨が降っているようだという意味。事実でないのでここも「なり」ではなく「哉」になる。
では、
鶯の笠落したる椿哉 芭蕉
はというと、やはり鶯が本当に笠を被っていたわけではなく、あくまで比喩で「笠を落としたような椿だ」という意味だから、ここも「なり」ではなく「哉」となる。
これに対し、
初時雨猿も小蓑を欲しげなり 芭蕉
の場合は、本当に猿が小蓑を欲しがっているわけではないから「欲しげ哉」になってもよさそうだが、「欲しげ」の「げ」のなかに既に本当に欲しがってるのではないことが記されているため、重複しないよう「なり」になる。「猿も小蓑を欲す」だったら「哉」になる。
「うぐひすの笠落したる椿哉
といへるハ、全体治定の哉也。「何風も吹ぬ日落る椿哉」ハ全体うたがひ也。上の何と云字きこえず。
何風も吹ぬ日落る赤椿
と成共、白椿と成共いへば、成程きこえ侍る。又
雨風のせぬ日も落る椿哉
といへ共、又きこえ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114~115)
「うぐひすの」の句が全体治定なのはわかる。ただ「何風も吹ぬ日落る椿哉」は果して疑いかどうかは疑問だ。むしろ何の風も吹いてない日なのに椿が落ちたという事実を述べたという感じがする。たとすると治定の「哉」でも断定の「なり」でもなく、叙述の「けり」が良いように思える。
何風の吹ぬも椿落ちにけり
が筆者的には正解だと思う。
許六の、
何風も吹ぬ日落る赤椿
は「何風も吹ぬ日赤椿落る」の倒置で、「落る」は治定でも断定でもない。「落ちにけり」に近い言い回しといえる。
雨風のせぬ日も落る椿哉
だと「何」と「哉」の重複は避けられるが、「雨風のせぬ日も落る」が比喩でも何でもなく主観としては弱いので、治定の「哉」がそれほど生きているとは思えない。
「何風といへるハ、風の惣名をすべていはむ為の五文字と見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.115)
「惣名」は総称のこと。春風、そよ風、強風、春嵐、など風にもいろいろあるが、そのすべてということ。否定の言葉と組み合わされると、嵐どころかほんの微風すらないのに、という意味になる。
「是世俗の平話にいひあやまりたる事を、歌・俳諧につらねたる詞也。
此句にかぎらず、何といふ字多クいひあやまりたる句、世間にいくらも有。此論にてよくしれたり。
何と云字の間に句を切て見侍れバ、落着よくきこえ侍る。
惣別平話を文字に書違侍る事在リ。分別なしに書侍れバ、あやまり多し。たとへバ「何と久敷あハぬ」といへる詞など、何の字曽てきこえね共、下畧の詞也。其下に「無事なるや」といふ事を、何と云字にもたせたる言葉也。よくききしりて互ニ合点し来れり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.115~116)
「何と云字の間に句を切て見侍れバ、落着よくきこえ侍る。」というのは、たとえば、
何ぞ、風も吹ぬ日落る椿
ということか。これだと確かに「疑い」の句になる。この場合の何は惣名ではない。
「何と久敷あハぬ」の「何と」は単なる強調の言葉として用いられている。今日でも「何と」は用いられる。この場合は「何て久しぶり」だが。
「いろいろな事情が考えられるが、それらすべてひっくるめて何がともあれ」が「何と」になったとすれば、この何も「惣名」をいうためのものと言える。
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