近所の花桃も満開になった。あとはソメイヨシノの開花を待つといったところか。ソメイヨシノも老木化が進み、切り倒されたりして数が減っている。
ソメイヨシノは挿し木でしか増やすことが出来ず、そのためすべてのソメイヨシノは一本の木のクローンだという。そのために一斉に寿命が来てしまうのか。
まあ、お隣の国では日帝の象徴だから切り倒せという声もあるみたいだが、急がなくてももうすぐ自然に寿命が来るのではないかと思う。
元々日本では桜といえばヤマザクラだった。白い清楚な花で花と葉が同時に芽吹く。ソメイヨシノが近代に入って急速に広まったのは、薄いピンクの華麗な色と葉のない姥桜だったのはもちろんのこと、開花時期がヤマザクラとそんなに変わらないから、季節感が従来通りで変わらなかったからというのもあるのかもしれない。
最近の河津桜、熱海桜、おかめ桜、春めき桜は皆姥桜だ。ソメイヨシノの華麗さを引き継いで、開花時期がそれぞれ異なり、そのため一月の終わり頃から四月の八重桜まで桜が絶えることがなくなった。花見の文化も変わってゆくことだろう。
それでは「鰒の非」の巻の続き。
四句目。
門番の寝顔に霞む月を見て
今朝むきそむる前栽の柿 宗波
宗波は『鹿島詣』の旅に同行した「水雲の僧」。
月さびし堂の軒端の雨しづく 宗波
ぬぐはばや石のおましの苔の露 同
夜田かりに我やとはれん里の月 同
の句がある。
「前栽」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
1 草木を植え込んだ庭。寝殿造りでは正殿の前庭。のちには、座敷の前庭。
2 庭先に植えた草木。
とある。門番が居るのだから大きな屋敷かお寺だろう。庭の柿の実を剝いて、門番にそっと差し出したのだろう。
「霞む月」を秋の薄月とする。
五句目。
今朝むきそむる前栽の柿
秋風に筵をたるる裏座敷 此筋
此筋は『校本芭蕉全集』第五巻の注に「大垣藩士宮崎荊口の長男、千川の兄」とある。
前栽に対して裏座敷を付ける向え付け。風が通らないように筵を垂れる。
六句目。
秋風に筵をたるる裏座敷
虫も雨夜は目覚めがちなる 濁子
濁子はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、
「?-? 江戸時代前期-中期の武士,俳人。美濃(みの)(岐阜県)大垣藩士。江戸詰めのとき松尾芭蕉(ばしょう)にまなぶ。絵もよくし「野ざらし紀行絵巻」の絵をかく。杉山杉風(さんぷう),大石良雄らと親交をむすんだ。名は守雄。通称は甚五兵衛,甚五郎。別号に惟誰軒素水(いすいけん-そすい)。」
とある。「野ざらし紀行絵巻」は『甲子吟行画巻』ともいい、芭蕉の自画自筆の原稿をもとに濁子が清書した濁子本が存在する。
この場合の虫は部屋の中にいる虫か。
初裏に入る。七句目。
虫も雨夜は目覚めがちなる
肌寒く痞のかたを下になし 千川
「痞(つかへ)」は漢字ベディアに「つかえ。腹のなかに塊のようなものがあって痛む病気。また、胸がふさがること。『痞結』」とある。漢方では脾胃の機能失調を言うようだ。腹部膨満感のことか。
前句の「虫」を腹の虫とし、雨夜になると虫がうずくとする。
八句目。
肌寒く痞のかたを下になし
手本に墨を付て悔けり 凉葉
姿勢が乱れると書も乱れる。思うように動かない体に、つい手本に墨を垂らして「ああ、しまった」というところか。
九句目。
手本に墨を付て悔けり
尼寺の老尼はひとり髪剃て 濁子
手本に墨を付けたのを独り侘しく髪を剃る老尼とする。位付け。
「尼寺の老尼」の重複を嫌い、「痩寺の老尼」と直したテキストもあるようだが、「ひとり髪剃」あたりで痩寺の風情なのでやはり重複感は免れない。
「尼寺の老尼」だと大きな尼寺でも年寄りは何となく敬遠され、孤立している様とも取れる。その意味だったのかもしれない。
若い尼さんがキャッキャ言いながら互いに髪を剃り合う脇で、ハブられた老尼は哀れだ。
十句目。
尼寺の老尼はひとり髪剃て
奈良へむぐらの内にこそあれ 芭蕉
前句を「痩寺」の老尼とする。葎が茂るのは古典の趣向で、遣り句と言っていいだろう。
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