今日の夕暮れは三日月と金星が並んで綺麗だった。
COVID-19の感染の拡大で来週から小中学校が休校になるということで、いよいよ生活にいろいろな影響が出てくるようになった。
平穏な日常もある日突然終ることもある。そんなことを考えると竜騎士07さんの『ひぐらしのなく頃に』のことも思い浮かぶ。
本当にパンデミックが来るなら、これくらいはまだ序の口といったところだ。一体何が起こるのか想像もつかないが、とにかく何があっても受けて立つしかないだろう。
今の状態で感染の広がりはとめられないかもしれないが、そのペースを遅らせ時間を稼ぐことくらいは出来るかもしれない。何もやらないよりは精一杯あがいた方がいい。
プラスに考えるなら、このパンデミックを一つの契機に、直接人と人が会わなくてもいいように、商取引や学校の授業のオンライン化、様々な分野でのAI化、工場の無人化、交通網の自動運転化などが加速してゆけばいいと思う。
クラウドソーシングも今後重要性が増すから、安倍首相も今から先手を打っているなら頼もしい限りだが。
それでは「口まねや」の巻の続き。
十五句目。
過がてにする西坂の春
有明のおぼろおぼろの佐夜の山 宗因
小夜の中山は金谷宿と日坂宿の間にある。
そのまま読むと日坂を明け方に旅立ち、春の朧の有明の月を見ながら小夜の中山を越えるという意味になる。
中村注はこれを有明行灯のことだとするが、この場合、
「『有明』が前句に続ける場合は、『有明の月』の意味にもなるので」(『宗因独吟 俳諧百韻評釈』中村幸彦著、一九八九、富士見書房、p.45)
とあり、その一方で「一句の意味」としては有明行灯で、有明行灯の朧に光る「小夜」つまり小夜ふけての頃だという。
最初にこの本を読んだ時には何の疑問も持たなかったが、「一句の意味」って一体なんだろうか。前句に付いた時の意味、後句に付いた句の意味だけで十分で、果して一句の意味を考える必要などあるのだろうか。ここは単に月のことでいいのではないか。
十六句目。
有明のおぼろおぼろの佐夜の山
無間の鐘に花やちるらん 宗因
「無間の鐘」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「静岡県、佐夜の中山にあった曹洞宗の観音寺の鐘。この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちるという。」
とある。
ここでも前句の有明は有明行灯の意味にはならない。普通に明け方の月の意味になる。
十七句目。
無間の鐘に花やちるらん
あだし世とおもひこそすれ出来分限 宗因
「徒世(あだしよ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「つねに移り変わるはかない世。無常の世の中。
※天満宮本拾遺(1005‐07頃か)雑下「あだし世の 例(ためし)なりとぞ さわぐなる〈藤原兼家〉」
とある。
「出来分限(できぶげん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「急に大金持になること。また、その人。にわかぶげん。
※俳諧・独吟一日千句(1675)二「仕合は日の出也けり出来分限 聟かむこなら家をとらせう」
とある。『独吟一日千句』は西鶴の『俳諧大句数』の前段階のもの。
前句の「無間の鐘」の「この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちる」というのを説明しただけといえなくもないことは、中村注も指摘している。
十八句目。
あだし世とおもひこそすれ出来分限
いくらも立てする堂供養 宗因
にわかに金持ちになって、何か良いことをしようと思ったのだろう。それが堂供養か。
堂供養はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「寺堂を建てて供養すること。また、その供養のために寺の周囲を稚児行列してねり歩くこと。
※今昔(1120頃か)三一「此の堂供養の間にも、兼てより可然き事共を様々に訪ければ」
とある。
十九句目。
いくらも立てする堂供養
鎌倉や南の岸のかたはらに 宗因
鎌倉の南の岸といえば材木座海岸だが、そこの堂供養というと九品寺のことか。ウィキペディアには、
「この寺は、新田義貞が鎌倉幕府滅亡後に北条方で亡くなった者の菩提を弔うために、1336年(建武3年)風航順西を開山として創建したものと伝えられる。」
とある。
二十句目。
鎌倉や南の岸のかたはらに
風によるをば海松よあらめよ 宗因
「みる(見る)」に掛けている「海松(みる)」は海藻の一種。松の葉に似た緑藻。「あらめ(あらむの已然形)」に掛けている「あらめ」も海藻で、褐藻の一種。
材木座海岸に打ち寄せられて見えるのは海松かあらめか。海松があったらいいな。
二十一句目。
風によるをば海松よあらめよ
帆かけ船はしり痔やみは押留て 宗因
「はしり痔」は裂肛のことで「切れ痔」とも言う。
中村注は貝原益軒の『大和本草』を引いて、あらめが痔の薬だという。
帆掛け舟の走るに「はしり痔」を掛けて、痔病みの者が舟を押しとめて、痔の薬の海松があったなら、とする。
二十二句目。
帆かけ船はしり痔やみは押留て
苫やの陰に侘た雪隠 宗因
舟を押し止めたのはトイレに行くためだった、とこれはシモネタ。
「苫やの陰に侘た」までは和歌の趣向で何か風流なものでもあるかと思わせて、「雪隠」で落ちにする。
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