2020年2月5日水曜日

 「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 四十三句目。

   はきたる矢にも鵺やいぬらん
 猿楽はけなげなりける物なれや   守武

 猿楽は能のこと。ウィキペディアによれば、

 「能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。」

とあり、また、

 「明治14年(1881年)、明治維新で衰微した猿楽の再興を目指して能楽社が設立された際に能楽と改称された。「能楽社設立之手続」には、『前田斉泰ノ意見ニテ猿楽ノ名称字面穏当ナラサルヲ以テ能楽ト改称シ……云々』とある。」

とある。俳諧が正岡子規のよって俳句となったようなもので、今日使われている言葉は明治時代に生じたものが多い。
 「けなげ」は古語では健気という字の通り、「勇ましい。たのもしい。勇壮だ。」あるいは「殊勝である。しっかりとしている。」という意味で用いられていた。(weblio「学研全訳古語辞典」より)
 前句の鵺を射る場面を能の一場面とする。謡曲『鵺』は今日にも残っている。
 四十四句目。

   猿楽はけなげなりける物なれや
 大夫がとしはかぎりしられず    守武

 「大夫」はウィキペディアには、

 「猿楽座(座)や流派の長(観世太夫など)を指し、古くは『シテ』の尊称として使用された時代もあったが、現在は使用されていない。」とある。猿楽の大夫は年取ってもますます芸に磨きが掛かり、その技は留まることを知らない。
 四十五句目。

   大夫がとしはかぎりしられず
 松はただ秦の始皇がなごりにて   守武

 前句の「大夫」を「五大夫」のこととする。
 「五大夫」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《秦の始皇帝が泰山で雨宿りをした松の木に五大夫の位を授けたという「史記」にある故事から》松の別名。」

とある。今の泰山にある五大夫松は、清代に植え替えられたものの内の二本だという。守武の時代にはまだ初代の松が残っていたのかもしれない。
 四十六句目。

   松はただ秦の始皇がなごりにて
 かんやうきゆうの秋風ぞふく    守武

 咸陽宮はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「戦国時代に秦の孝公が咸陽に建てた壮大な宮殿。のち、始皇帝が住んだ。」

とある。その咸陽宮も時が経てば荒れ果てて、松の木のみ名残にしてただ秋の風となる。
 こうした趣向は近代の、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」の三番にも受け継がれている。

 今荒城の夜半の月
 変わらぬ光誰がためぞ
 垣に残るはただ葛
 松に歌うはただ嵐

 四十七句目。

   かんやうきゆうの秋風ぞふく
 月や思ふわれらごときの物知らず  守武

 守武のこうした展開を見ると、江戸後期の人が「三句の渡り」という言葉も頷ける。

 松はただ秦の始皇がなごりにて
   かんやうきゆうの秋風ぞふく
 月や思ふわれらごときの物知らず

と三句一セットにして意味が通る。
 こうした緩い展開は貞徳の嫌う所で、蕉門に至るまでスピード感のある急展開が求められていたが、江戸後期から現代連句に至るまでは、またこうした緩い展開に戻るところもあったようだ。
 咸陽宮も荒れにし跡はただ秋の風。月は昔の咸陽宮を知っているが、我々は何を知るのだろうか。
 四十八句目。

   月や思ふわれらごときの物知らず
 露けきころはただ御免なれ     守武

 月を見ようと思ってはみても、我等ごとき風流の心のないものからすれば、露のじめじめした季節は勘弁願いたい。
 緩い展開ばかりでなく、時折こういう思い切った展開もする。
 毎句毎句笑いを取りにゆくのではなく、時折こうして落として笑わせるというのが守武の俳諧だったのだろう。
 四十九句目。

   露けきころはただ御免なれ
 花にとて雨にもいそぐ高あしだ   守武

 高足駄は歯の長い高下駄のこと。一本歯の高下駄は修験者などが用いた。
 芭蕉が黒羽で詠んだ句にも、

 夏山や首途を拝む高足駄      芭蕉

の句がある。『奥の細道』では、

 夏山に足駄を拝む首途哉      芭蕉

と改められている。
 単に「足駄」という場合も高下駄の意味だが、こちらは実用的なもので、コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「足駄(高下駄)は鼻緒が前寄りにつけられ,引きずるように履くのではねが上がらず,道路の整備された近世以降は歩行用の履物となったが,中世では衣服が汚れないよう戸外での排便や水汲み,洗濯などに用いられた。」

とある。守武の時代は中世なので、花見に高足駄で行くのは今で言えば便所のスリッパを履いてゆくようなものだったのかもしれない。「ただ御免なれ」と許しを請うことになる。
 五十句目。

   花にとて雨にもいそぐ高あしだ
 牛若どのの春のくれがた      守武

 「高足駄」を実用的な足駄ではなく修験の履く方のものとして、鞍馬山で修行していた牛若丸を登場させる。
 春の暮れ方、雨の山道をものともせずに颯爽と走る牛若丸の姿が浮かぶ。これが後の八艘飛びの元になったか。

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