『紙の日本史』(池田寿著、二〇一七、勉誠出版)が届いた。すぐに気になってた紙子の所(p.110~115)を拾い読みした。
紙子は空海の時代からあったようだ。それ以降ももっぱら僧の服装として用いられていた。
『今昔物語』が引用されている。
「破タル紙衣荒キ布ノ衣ヲ着タリ、或ハ破タル衣ヲ覆ヒ、或ハ鹿ノ皮ヲ纏ヘリ」(巻一三第一五)
「衣ハ紙衣ト木皮也、絹布ノ類敢テ不着ス」(巻一三第二七)
僧が絹を用いないのは、製造の過程で蚕を殺すからだろう。芭蕉の『奥の細道』の途中で巻いた山中三吟の十一句目に、
髪はそらねど魚くはぬなり
蓮のいととるもなかなか罪ふかき 曾良
の句があるが、これは暗に絹糸だけでなく仏様の花の蓮から糸を取るのも、という意味があったのだろう。
ただ絹を用いないとはいっても、麻衣はごわごわしていて肌触りが悪い。そこで内側に紙子を着るようにしたのだろう。紙は風を通さないので防寒性に優れていて、冬の行脚には欠かせなかったに違いない。
破れた紙子を大事に着ているのは、やはり紙子がそんなに安いものではなかったからだろう。鎌倉時代の『発心集』にも、
痩せ黒みたる法師紙衣の汚なげにはらはらと破れたる」(第七ー一二)
とあり、『沙石集』にも、
「暮露々々の如くにて、帷に紙衣きてぬるに」(巻第八ー十四)
とあるという。これは紙衣が貧しい人の衣服だというよりは、紙衣を破れてぼろぼろになるまで着るのが貧しいのではないかと思う。
また、
「優れたやまと絵の伝統を伝える十三世紀前半の制作になる『西行物語絵巻』(重文、愛知、徳川美術)に描かれている漂泊の歌人・西行(一一一八~九〇)の姿は、吉野山に向かう詞書に、「麻の衣のすみ染に、かき紙きぬの下着に」(第二巻第三段)とあり、修行の装束は柿渋引きの紙衣を墨染の麻衣の下に着していたことが知られる。」(『紙の日本史』池田寿著、二〇一七、勉誠出版、p.112)
とある。
また紙子は死出の旅にも用いられたようだ。藤原定家が父俊成も紙の御衣を作って着せたという。
今日は紙子の話になってしまったが
また、こうもある。
「連歌師の宗長が大永二年(一五二二)五月から同七年九月までの駿河国府中への下向と上洛とをくり返し、旅の途次における地方の様子を伝える紀行文である『宗長手記』には「かみこのためとて、富士綿一把」とある。「かみこ」は紙子ともいわれる衣服のことで、紙子の防寒保温性を高めるために富士山麓にて産する綿が利用されたものと思われる。」(『紙の日本史』池田寿著、二〇一七、勉誠出版、p.113)
この文章は『宗長作品集』(重松裕巳編、一九八三、古典文庫)の「宗長道之記全」にあった。
「油比美作法名保悟、かみこのためとて、富士わた一把。其文の返事にいひかはし侍り。
なになににとかくするがのふじわたの絶ぬすそ野に雪はふりつつ」(『宗長作品集』重松裕巳編、一九八三、古典文庫、p.230)
綿は平安時代に一時期栽培されたが廃れ、ふたたび盛んになるのが戦国時代の後半だと聞いていたが、室町時代には中国や朝鮮(チョソン)から綿を輸入していたし、国産化もあちこちで試みられていたようだ。
ただ、ここでは綿を紙子にした以上、木綿の布にしたのではなさそうだ。綿入れにしたのか、それとも綿で紙を漉いたのか。
今日は紙子の話になってしまったが、次回は「守武独吟俳諧百韻」の続きの方に戻る。
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