今日は曇り。
東京の新たな感染者は五十七人で、感染経路のわからないのが三十六人。確実に上昇トレンドに入っている。
アマビエ巻九十六句目。
豊かさは自由があってこそのもの
早咲き枝垂れ八重の花々
それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。
八十九句目。
落つる涙にうかぶ手枕
昔思ふ袖にかほれる梅の花 心敬
「昔思ふ袖の香ほれる」は、
五月待つ花橘の香をかげば
昔の人の袖の香ぞする
よみ人知らず(古今集)
で、この時代の連歌はそれほどマイナーな本歌を引いてくる必要はない。誰もが楽しめるように、誰もが知ってる歌を使うのが良しとされていたからだ。ただ、時代が下ると、それに飽き足らぬ作者がやたら難解な出典を好むようになり、連歌がオタク化してしまうことになる。
島津注は、
昔思ふさ夜のねざめの床さえて
涙も氷る袖の上かな
守覚法親王(新古今集)
を引くが、「袖」に「涙」を読んだ歌は無数にあり、それこそ付き物だ。
花橘を梅の花に変えることで、『伊勢物語』の「月やあらぬ」の歌で有名な四段の、
「またの年の正月に、梅の花盛りに、去年を恋ひて、行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月の傾くまで伏せりて、去年を思ひ出でて詠める。」
の一節を思い起こさせる。
こういう出典のわかりやすさへのこだわりも心敬さんならではのものだ。連歌はオタク文化ではなく、あくまでポップでなくてはならなかった。
芭蕉の時代も其角などは難解な出典でオタク化の道を歩んだが、芭蕉はポップに留まろうとした。
九十句目。
昔思ふ袖にかほれる梅の花
草の庵も春はわすれず 元用
これも、「春はわすれず」とくれば、
東風吹かばにほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春を忘るな
菅原道真(拾遺和歌集)
で、島津注も引用している。「梅の花」との縁もあり、僻地に左遷され隠棲する隠士の句とする。
九十一句目。
草の庵も春はわすれず
大原や山陰ふかし霞む日に 行助
大原に隠棲となれば、『平家物語』の大原御幸であろう。
「大原御幸」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「平曲の曲名。伝授物。灌頂巻(かんぢようのまき)5曲の中。後白河法皇は建礼門院の閑居訪問を思い立つ。4月下旬のことで,道には夏草が茂り,人跡絶えた山里である。山すその御堂は寂光院(じやつこういん)で,浮草が池に漂い,青葉隠れの遅桜が珍しく,山ホトトギスのひと声も,法皇を待ち顔に聞こえる。質素な女院の庵に声を掛けると,老尼が出迎え,女院は山へ花摘みに行かれたと告げる。尼は昔の阿波内侍(あわのないし)だった。」
季節はややずれるが、本説を取る時に少し変えるのは普通のこと。古くはほとんどそのまんまでも良かったが、蕉門の俳諧では多少変えるのを良しとした。
九十二句目。
大原や山陰ふかし霞む日に
川音近し谷の夕暮 宗祇
ここは景色でさらっと流す。ただ、春の山川の霞む夕暮れは大原ではないが、
見渡せば山もとかすむ水無瀬川
夕べは秋となに思ひけむ
後鳥羽院(新古今集)
による。
後に『水無瀬三吟』を巻く宗祇さんだけに、やはり好きな歌だったのだろう。
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