サツキと紫陽花の季節が来たね。
やっぱり花はいいね。
差別をなくすのは暴力なんかではない。心の花それだけだ。
あの娘は夜の街へと消えて
役人の小遣いじゃ援交は無理
それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。
六十一句目。
御かりのかへさ野もひびく也
霰ちる那須のささ原風落ちて 修茂
「那須のささ原」はあまり聞かない。普通は「那須のしの原」だが、意味は変わらない。地域にもよるのかもしれない。
前句の「ひびく」を霰の音として、霰に縁のある那須の篠原を登場させる。那須の篠原の霰といえば、
もののふの矢並つくろふ籠手のうへに
霰たばしる那須の篠原
源実朝(金槐集)
であろう。
六十二句目。
霰ちる那須のささ原風落ちて
草葉のかげをたのむ東路 長敏
霰の打ちつける中、一面の篠原では防いでくれる木すらない。草葉の影だけが頼りだ。「草葉のかげ」は死んだあとに現世に残してきた人を見守るのに「草葉の陰で見ている」という言い方をするので、取り成しを期待しての言い回しであろう。
六十三句目。
草葉のかげをたのむ東路
見ぬ国の玉とやならむ身の行衛 心敬
「玉」は「魂」のことであろう。見しらぬ国で死して霊魂となってしまうかもしれないので「草葉の陰」を頼むということになる。
旅に死ぬと魂が成仏できずにその地に留まり、道祖神になることもある。その時は社を立てて祀ってくれということか。
宗祇の最期は宗長の『宗祇終焉記』に、
「かく草のまくらの露の名残も、ただ旅をこのめるゆゑならし。もろこしの遊子とやらんは、旅にして一生をくらしはてぬる人とかや。是を道祖神となん、」
と記されている。
心敬はそれよりまえの文明七年四月十六日に大山の麓の石蔵で七十年の生涯を閉じることになる。今の伊勢原市の産業能率大や伊勢原大山ICのある辺りだ。心敬塚古墳もあるが、金子金次郎によれば天保十二年の『新編相模国風土記』に記述のないところから、新しい伝承だという。
六十四句目。
見ぬ国の玉とやならむ身の行衛
はてもかなしき天つ乙女子 宗悦
「天つ乙女子」は天女のことで、各地に羽衣を失って天に帰れなくなるという羽衣伝説がある。この場合も羽衣を失った天女であろう。
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