2021年8月29日日曜日

 パラリンピックはかっこいい障害者がたくさん登場するので、障害者がかっこいいというイメージを作ることができる。これは大事だと思う。黒人だってブラックミュージックがなかったらだいぶイメージが違ってたと思う。かっこいいという所でみんなの心を引き付けて、もっと知りたいと思う所で、背後に抱えている問題にも意識が行くようになる。
 まあそういうわけで今日のネット観戦だが、朝はまずトライアスロンから。あのハンドサイクルってかっこいいね。昨日はタンデムだったが。日本の道路で走れるのかな。
 ゴールボール男子の日本・ブラジル戦はブラジルのループシュートにやられたね。あの高いバウンドのボールは、ブラジルのディフェンスは起きあっがって正面で受けて前へ落そうとするが、寝たままでは対応できない。ストレートに球威があるから、なかなか起き上がるのに勇気がいるんだろうな。
 ゴールボールの女子の方はエジプトにコールド勝ちだが、エジプトはこれまでもすべてコールド負け。最初のトルコ戦では体を横にしない真正面に構えるスタイルで、前一人に後ろに二人で真ん中寄りの三角形を作る陣形で守っていたが、トルコの早いボールにも高いバウンドのボールにも対応できてなかった。アメリカ戦では体を横にしないで構えるのはそのままだが、横に広がって並ぶスタイルに修正してきたが、やはり通用しなかった。多分それで、完全に自信を失ってたのだろう。前の二試合に比べても動きが悪かった。
 早い球に対応するには横になって構えて、低いボールはそのまま伏せて壁を作り、バウンドの高い速度が遅いボールの時は起き上がる、というのが多分今のセオリーなのだろう。
 目が見えないというだけで、目が見える人が誰でもやっているビデオを見て研究するということができないから、それだけで技術や戦術の伝達の難しさというのもあるのだろう。
 今日はブラインドサッカーも見たが、見えてるんじゃないかと思うくらい普通にサッカーをやっていた。まあ、どっちかというとフットサルに近い感じはするが。見えているといえば、逆にどの選手も当たり前のように360度見えているのかもしれない。見える人がやりがちな後ろからのファウルとかあまり意味がなく、戦術やフォーメーションは独特なものがありそうだ。
 ゴールボールは見える人にもすぐにその面白さが分かるが、ブラインドサッカーは見える人のサッカーの常識と大きく異なるため、わりと上級者向けなのかもしれない。
 コロナの方も27日の時点での実効再生産数が全国で1.06、東京は0.92で、どうやら目出度く釈迦三尊の別れになりそうだ。死者数も七月十五日に一万五千人を越えて、未だ一万六千人に至らない。日本の大衆はまた勝ったんだ。
 気になるのはモデルナワクチンの異物の正体がいつまでたっても公表されず、ネットに怪しげなデマが飛び交っていることだ。

 さて、九月四日の「松茸や(知)」の巻を読み終えたところで、翌五日に「行秋や」の句の句会があり、その翌日九月六日に「松風に」の五十韻興行があったが、これは以前に読んで「鈴呂屋書庫」にアップしてある。
 なお、この九月三日から七日までの間に、

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

の句を発句とする、芭蕉、惟然、支考の三吟歌仙が興行されている。あるいは五日の「行秋や」の時だったのかもしれない。七日だったのかもしれない。
 そして九月八日、芭蕉と支考は大阪へ向けて旅立つ。支考の『笈日記』を読んでみよう。

  「九月八日
   難波津の旅行この日にさだまる事は奈良の旧都の
   重陽をかけんとなり。人々のおくりむかへいとむつかしとて
   朝霧をこめて旅立出るに、阿叟のこのかみもおくりミ
   給ひてかねて引わかれたる身の此後ハあはじあはじと
   こそあきらめつるにたがひにおとろへ行程は別も
   あさましうおぼゆるとて供せられつるもの共に介
   抱の事などかへすがへすたのみて背影の見ゆる
   かぎりはゐ給ひぬ。」

 旅立つ時から重陽を奈良で迎えようという意図があったようだ。これは伊賀で重陽を迎えると、またそれを盛大に祝わなくてはならないため、衰弱のひどい芭蕉翁の負担になるという配慮だったのかもしれない。
 芭蕉の兄は半左衛門で時折手紙のやり取りもあって、六通の半左衛門宛書簡が今日残されている。
 同行者に芭蕉の介護を託しているが、この時の同行者は『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)によると、支考、惟然、実家の又右衛門、二郎兵衛らとなっている。このことがあったため、支考は最後まで介護要員を買って出てたのかもしれない。
 支考は芭蕉と最後の旅にかなり長く同行しているし、『続猿蓑』の編纂にも関わったということは、芭蕉の支考への信頼はゆるぎないもので、多分に後継の意識もあったのだろう。芭蕉が不易流行説から脱却し、「軽み」へ向けて手法を変えていった時、その発端は支考との出会いにあったのかもしれない。
 芭蕉が曾良から学んだ不易流行説は、不易を知る際に古典の学習を重視していた。それに対し、不易は古典に限らずあらゆるものから学べるという発想の転換は、支考の頓悟にあったのかもしれない。これによって蕉風は出典にこだわらない自由な発想による、初期衝動を重視したものへと変わっていった。

  「その日はかならず奈良までといそ
   ぎて笠置より河舟にのりて錢司といふ所を
   過るに山の腰すべて蜜柑の畑なり。されば先の
   夜ならん
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  翁
   と承し句はまさしく此所にこそ候へと申ければ
   あはれ吾腸を見せけるよとて阿叟も見つつわらひ
   申されし。是は老杜が詩に青は峯巒の
   過たるをおしみ黄は橘柚の来るを見るとい
   へる和漢の風情さらに殊ならればかさぎの峯は
   誠におしむべき秋の名残なり。」

 伊賀から奈良への道は通常は笠置街道になる。今の「旧大和街道」と呼ばれる道で伊賀城下を西に向かい、仇討で有名な鍵屋の辻を通り、木津川を渡り、島ヶ原、月ヶ瀬口、大河原など今の関西本線に近いルートを経て木津川沿いの笠置に出る。笠置からは通常は陸路の笠置街道で東大寺の裏に出る。
 ここでは急ぐということで笠置から船に乗って木津川を下って、木津から奈良街道を行くルートを選んだのだろう。その途中に銭司がある。『笈日記』には「デス」とルビがあるが、今は「ぜず」と呼ばれている。
 その銭司聖天光明山聖法院のホームページには、

 「銭司聖天は、その名の如く「金銭を司る聖天様」をお祀りしております。この銭司(ぜず)という地名は、慶雲5年(708年)武蔵国から銅が産出し、これによって年号が和銅と改められ、日本最初の広域流通通貨である「和同開珎」が鋳造されました。当時、都として栄えていた奈良にも近く木津川の水運の利用等もあり、この地に鋳銭司(ちゅうせんし)、今の造幣局が設けられ貨幣を鋳造していたため、現在の銭司と呼ばれるようになりました。」

とある。今は富本銭に最古の座を奪われたが、かつては日本最古と言われていた「和同開珎」鋳造の地だった。ここは古くからミカンの産地でもあった。ネット上の乾幸次さんの「山城盆地南部における明治期の商業的農業」には、

 「『雍州府志』にみえる山城盆地南部での特産蔬菜の産地をみると,蕪著・薙萄(大根) が御牧に,芹菜が宇治に,牛芳が八幡などの木津川下流付近に産し,さらに京都都心より約30~32kmの木津川上流の狛に茄子・越瓜・角豆・生姜,鐵司(銭司)に橘(ミカン)が産し,いずれも「売京師」と記載されている。」

とある。『雍州府志』はウィキペディアに「天和2年(1682年)から貞享3年(1686年)に記された。」とある。
 当時の蜜柑の一大産地で、京に供給してたようだ。そのため山の中腹が一面のミカン畑になっていた。
 そこで思い出したのが「松風に」の五十韻興行の二十七句目、

    一里の渡し腹のすきたる
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  芭蕉

の句だった。普通に読むと、腹が減ったから黄葉した山が蜜柑のように見える、という意味に取れるので、支考も多分そういう句だと思ってたのだろう。それを支考は朝日の色に取り成して、

   山はみな蜜柑の色の黄になりて
 日なれてかかる畑の朝霜     支考

と続けていた。
 それがこのミカン畑の景色だった。あの句はここの景色のことだったんだと言うと、芭蕉はバレたかって感じだった。
 この年の春の、

 八九間空で雨降る柳かな     芭蕉

の句も、実は奈良東大寺の近くにある柳がモデルになっていたみたいに、芭蕉は銭司のミカン畑の景色を思い出しながら、「山はみな」の句を付けたが、有名な場所ではなかったし、特にここの景色を特定して詠む意図はなかったのだろう。
 ただ、これを知ってしまうと、支考はこれは杜甫の「放船」に通じるものではないかと思う。

   放船    杜甫
 送客蒼溪縣 山寒雨不開
 直愁騎馬滑 故作泛舟回
 青惜峰巒過 黃知橘柚來
 江流大自在 坐穩興悠哉
 (蒼溪縣へ客を送ったが、山は寒くて雨は止まない。
 馬だと滑ると思って、あえて船を浮かべて廻し、
 山の青を惜しみながら峰巒を過ぎれば、蜜柑の黄色が見えてくる。
 川の流れは悠然と山をぬって行き、ただ座っているだけでも飽くことを知らない。)

 木津川の川下りの景色は、確かにぴったりだろう。まあ、本物の中国とはスケールが違うとは思うが。なお、蒼溪縣は四川省にある。

  「船をあがりて
   一二里がほどに日をくらしてさる沢のほとり
   に宿をさだむるにはい入て宵のほどをまどろ
   む。されば曲翠子の大和路の行にいざなふべきよし
   しゐて申されしがかかる衰老のむつかしさを
   旅にてしり給はぬゆへなるべし。さみづからも口おし
   きやうに申されしがまして今年ハ殊の外に
   よはりたまへり。その夜はすぐれて月もあきら
   かに鹿も声々にみだれてあはれなれば月の
   三更なる比かの池のほとりに吟行す。
 ひいと啼尻声かなし夜の鹿    翁
 鹿の音の糸引きはえて月夜哉   支考」

 木津で船から降りて奈良街道を南に一里半くらいで猿沢の池の辺りに到着する。「日をくらして」というから、早く着くためというよりは、芭蕉の体調を考えてのことだったのだろう。陸路の部分も駕籠に乗ったと思われる。
 曲翠は曲水と同じで膳所の人。大和路の旅を計画していたが、結局果たされることはなかった。
 奈良では半月よりももう少し膨らんだ九日の月が出ていて、鹿の声が聞こえてくる。今の奈良公園の鹿で、春日大社の創建の際に建御雷命(たけみかづちのみこと)が鹿島神宮から神獣である白鹿に乗ってきたとされていることから、ここでは古代から鹿が保護されてきて今に至っている。

 びいと啼く尻声悲し夜の鹿    芭蕉

の句は実際に声を聞けば、本当にビイーと言っているというところで面白さが分かる。鹿は古来妻訪う鹿の哀れを本意にしていて、「びい」という擬音で読者に「あるある」と思わせる句だ。
 「尻声」は長く尾を引く声のことだが、連想で鹿の尻が浮かんでくるところにも面白さがある。

 鹿の音の糸引きはえて月夜哉   支考

 鹿の尻声を糸を引くような声、と言いなおし、「悲し」を「はえて」と美しさの方に重点を置いて月を添える。ほとんど芭蕉の句のバリエーションと言っていいだろう。
 支考にしてみれば、この景色の一瞬の美しさが、一種の純粋経験としての輝きに持っていきたかったのだろう。
 「糸引き」は一つの取り囃しだが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「糸引」の解説」に、

 「① 糸を引き伸ばすこと。また、糸を引き伸ばしたような状態になること。
  ② =いととり(糸取)①
  ※永録帳(古事類苑・産業一七)「信州濃州之糸挽共同道仕、奥州へ罷下り」
  ③ 糸を引いてするくじ引き。
  ※内裏式(833)十六日踏歌式「但糸引榛揩群臣踏歌竝停レ之」
  ④ 他の人を巧みにあやつり、行動させること。また、そのあやつる人。
  ※歌舞伎・彩入御伽草(おつま八郎兵衛)(1808)序幕「これにゃア、くっついて、糸引きをする奴がゐるな」
  ⑤ 仏などを合掌して拝むときに、その指先から糸のようなものが現われるという俗信。」

とある。この⑤の意味を含ませたのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿