生存競争は人間の場合、排除される前に排除しろという戦いになる。密告や讒言で他人を悪人に仕立て上げることで、自分だけ助かろうとする。裁かれる前に裁け、ということだ。ポルポト時代のカンボジアの虐殺もそうやって起きた。今のネット上も直接殺しはしないものの、それに近い。
真の多様性とは「許す心だ」。多少の過ちを赦す心が多様性を生み出す。失敗が成功の元と言うように、失言は正論の元だ。人は失敗し、試行錯誤を繰り返すことで誠に至る。
恐怖に負けてしまえば恐怖の奴隷だ。回避するためなら靴の底でも舐める。コロナでも戦争でも同じだ。
そういうわけで、恐怖が支配する社会ではなく、笑いが支配する社会を作ろう。
元禄七年の秋の俳諧を読んだところで、その前後の元禄八年刊支考編の『笈日記』「伊賀部」を見てみようと思う。
「去年元禄七年後のさみだれに武江より旧里
にわたりて洛の桃花坊にあそび湖の木そ塚に
納凉して文月のはじめふたゝび伊賀に歸て
したしき人々の魂など祭りて九月の始又難波
津の方に旅だつ。この秋此別ありとしらばたの
むべくなすべき㕝もおほかるべきに
七月十五日
家はみな杖にしら髪の墓まいり 翁」(笈日記)
「後のさみだれ」は閏五月の五月雨ということか。芭蕉は東海道の島田で大井川の川止めにあっている。
洛の桃花坊は京都長者町の去来亭のこと。この辺りは昔の京の条坊制で桃花坊と呼ばれていた。
芭蕉は閏五月二十二日に膳所から京都移り、そこで落柿舎乱吟「柳小折」の巻を興行する。この時に支考も同座している。その後も「葉がくれを」の巻、「牛流す」の巻に同座している。この時興行は落柿舎で行われているが、実際には桃花坊去来亭に滞在していて、落柿舎に通っていたのかもしれない。距離にして一里半というところか。
六月十五日に京都から膳所に移る。この時に支考も同行している。そして、翌十六日に曲翠亭での納涼の宴があり、支考が『今宵賦』を記し、そのあと「夏の夜や」の巻が興行される。
このあと大津本間丹野亭での「ひらひらと」の巻、大津木節庵での「秋ちかき」の巻に同座し、『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)によれば七月五日に再び京都桃花坊の去来亭へ行き、七月中旬に伊賀上野に帰ったという。この時芭蕉と支考は別行動で、支考は伊勢へ戻ったようだ。
九月に奈良を経て難波に旅立つまで、芭蕉は故郷の伊賀で過ごすことになる。
七月十五日
家はみな杖にしら髪の墓まいり 芭蕉
この句は『三冊子』を読んだ時にも触れたが、元禄八年刊路通編の『芭蕉翁行状記』には、
一家皆白髪に杖や墓参 芭蕉
とあり、元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』には、
甲戌の夏大津に侍しをこの
かみのもとより消息せられけれ
ば旧里に帰りて盆會をいとなむとて
家はみな杖にしら髪の墓参 芭蕉
とある。
芭蕉も老いたが、郷里の親族も皆年を取っていて、思うこともいろいろあったことだろう。
「八月十五日
今宵誰よし野の月も十六里
名月の佳章は三句侍りけるに外の二章は評を
くはへて後猿蓑に入集す。爰には記し
侍らず。今宵の前後にや有けむ猿雖亭
にあそぶとて、
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
鶴の頭をあぐる粟の穂 翁」(笈日記)
今宵誰よし野の月も十六里 芭蕉
の句は今宵も誰か吉野で月を見ているのだろうか、ここから十六里もある、というもので、芭蕉が杜国(万菊丸)と吉野の花見に行ったことなどを思い出したのだろう。その花を俤にして、今宵の名月を詠むことで、花と月とを同居させている。
外の二章というのは、
名月に麓の霧や田のくもり 芭蕉
名月の花かと見えて棉畠 同
で、この二句については2021年3月15日の鈴呂屋俳話に記している。ともに月と花との困難な同居をテーマとしている。
「あれあれて」の巻は七月二十八日の猿雖亭での興行の句で、台風の通り過ぎた後だったのだろう。野分の去った後の垂れる粟の穂に、頭を挙げる鶴(コウノトリ)を配している。
「九月二日
支考はいせの國より斗従をいざなひて伊賀の山中
におもむく。是は難波津の抖擻の後かならず
伊勢にもむかへむと也。三日の夜かしこにいたる
草庵のもうけもいとゞこゝろさびて
蕎麥はまだ花でもてなす山路哉 翁
松茸やしらぬ木の葉のへばり付 仝
この松茸をその夜の巻頭に乞うけて一哥仙侍り
爰に記さず。次の夜なにがしが亭に會して
松茸や宮古にちかき山の形 惟然
松風に新酒を澄す山路かな 支考
此句は山路を夜寒にすべきよしにてその會
みちて歸るとて集などに出すべくばもとの
山路しかるべしといへり。いかなるさかひにか申されけむ
行秋や手をひろげたる栗のいが 翁」(笈日記)
ここで支考が伊勢から斗従を連れて伊賀で再び芭蕉と合流する。
斗従は文代ともいう。
抖擻(とそう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「抖擻・斗藪」の解説」に、
「〘名〙 (dhūta 頭陀の訳) 仏語。
① 身心を修錬して衣食住に対する欲望をはらいのけること。また、その修行。これに一二種を数える。とすう。頭陀(ずだ)。
※性霊集‐三(835頃)中寿感興詩「斗藪之客、遂爾忘帰」
※源平盛衰記(14C前)一八「角(かく)て抖擻(トソウ)修業の後再(ふたたび)高雄の辺に居住して」
② ふりはらうこと。特に、雑念をうちはらって心を一つにすること。一つのことに集中して他のことを思わないこと。
※卍庵仮名法語(18C中か)「参禅は、刹那も油断あるべからず、出息入息、精神を抖擻(トソウ)し、前歩後歩」
とある。
大阪での洒堂と之道の仲を仲裁した後ということだろう。
九月三日の夜に支考と斗従は伊賀に着き、
松茸やしらぬ木の葉のへばり付 芭蕉
という芭蕉が三年前に詠んだ発句を立句とした歌仙興行が行われ、斗従が脇を付けている。
松茸やしらぬ木の葉のへばり付
秋の日和は霜でかたまる 文代
蕎麦の句は『続猿蓑』に、
いせの斗從に山家をとはれて
蕎麥はまだ花でもてなす山路かな 芭蕉
という前書きで収録されている。夏蒔きの蕎麦も山奥となればさらに遅く、旧暦九月にようやく花が咲き、食べるのはもっと後のことになる。抖擻(洒堂と之道の仲を仲裁)の後には蕎麦を食べようということだったか。
もう一句の、
松茸や宮古にちかき山の形 惟然
の方は、猿雖自筆懐紙に「戌八月廿三日猿雖亭」とあり、十六句が残っている。惟然、土芳、猿雖、芭蕉の四吟で、支考の参加はない。
その一方で「戌九月四日會猿雖亭」という前書きで、
松風に新酒をすます夜寒哉 支考
を発句とする五十韻が残されている。支考の記憶に混乱があったと思われる。
なお、ネット上の玉城司さんの「『芭蕉翁追善之日記』と『笈日記」をめぐって『続猿蓑』編集の一端に及ぶ」に昭和初年に発見された『芭蕉翁追善之日記』との異同が記されている。これによつと、『芭蕉翁追善之日記』には、「蕎麦はまだ」の句の後が、
其夜は殊の外につかれて、宵より臥す。次の日何某*の方より、松茸を一籠饋りけるに、支考も斗従も珍しくてならべ見けるに、
松茸やしらぬ木の葉のへばり付 翁
此松茸を今宵の巻頭に乞うけて、一歌仙満ぬ。爰にしるさず。五日の夜なにがしの亭に会あ
り。
行秋や手をひろげたる栗のいが 翁
此こゝろは伊賀の人々のかたくとゞむれば、忍びてこの境を出んに、後にはおもひ合すべきよ
し申されしが、永きわかれとはぬしだにもいのり給はじを、六日は猿雖亭に饗せられて、
松風に新酒をすます山路かな 支考
此句は山路を夜寒にすべきよし申されしに、其会みちて帰るとて、集などに出すべくは、もと
の山路しかるべしといへり。いかなるゆへにか申されけんしらず。」
になっている。これが元の記憶だったと思われる。
三日に伊賀に着いた支考と斗従はその日は疲れて眠り、翌四日に何某から松茸の差し入れがあり、そこで芭蕉の旧作を聞いたのであろう。それを立句にしてこの夜歌仙興行が行われる。この歌仙には惟然も同座していて、おそらく八月二十三日の「松茸や(宮古)」の巻の時から滞在していた。
何某が誰かはわからないが、猿雖以外だとすれば雪芝か。「松茸や(知)」の巻で芭蕉、斗従(文代)、支考のあと四句目を付けている。
五日の何某亭の会では「行秋や」の句では興業は行われず、この時に同時に惟然の「松茸や(宮古)」の発句とともにこの時の興行の様子を詳しく聞かされたことから、この日に興行があったかのような偽記憶が作られてしまったのだろう。
『笈日記』の方では、「行秋や」の句をいつ聞いたか記憶が曖昧になり、最後に付け加えることになった。
そして六日に猿雖亭で「松風に」の巻の五十韻興行が行われた。支考、惟然が同座しているが、斗従(文代)は参加していない。
「松風に」の句の改作については『三冊子』を読んだときに書いて、重複することになるが、記しておこう。
「この句は元禄七年九月四日伊賀の猿雖亭での七吟五十韻興行の発句で、その時の発句は、
松風に新酒をすます夜寒哉 支考
だった。興行の前に芭蕉にこの句を見せたところ「夜寒」にした方がいいと言われて、この形で興行を行ったが、帰り道で集に入れる場合は「山路」で言い、という話だった。
この時の新酒は「あらばしり」と呼ばれるもので、「新酒をすます」というのは醪(もろみ)の入った袋を吊り下げて、搾り出す過程と思われる。こうして出来たあらしぼりは若干白濁しているが、どぶろくに較べれば雲泥の差の澄んだ酒になる。
新酒を用意してくれた亭主猿雖への感謝という意味では、このような夜寒の季節に新酒はありがたいの方がふさわしかった。
山路だと旅体になる。山路を行くうちに新酒も濾過され、宿に着く頃には美味しい新酒が飲めるという意味になる。おそらく猿雖亭に行くまでの道でできた句であろう。
興行の際の立句と書物に乗せる際の発句との違いといえよう。」
実際は九月六日の興行だったのではなかったか。
行秋や手をひろげたる栗のいが 芭蕉
この句は興行には用いられなかった。栗は熟してくるといがが開いてくる。それを握っていた手が開くのに喩えたもので、明白な寓意はない。
ただ、
手をはなつ中におちけり朧月 去来
の句が『去来抄』「先師評」にあるところから、「握っていた手をひろげる=手を放つ」というところで別れを暗示していたのかもしれない。
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