今日は一日雨。関西の方はかなり降っているようだ。オリンピックは天に恵まれたが、甲子園は天に見放されたか。
アニメの「ピーチボーイリバーサイド」を見てて思ったんだが、「差別は憎しみから来る」という発想は確かに素朴な発想として共感を得やすいんだと思う。心の問題にしてしまえば心で解決できる。何ともハッピーな話だ。
なら、最初の憎しみはなぜ生じたのか。問題はそこだ。
基本的に同一地域で二つのルールは共存できない。
わかりやすい例えは車が道路のどちらを走るかで、日本では左が正義だがアメリカでは右が正義だ。同一地域でこの二つのルールは共存できない。
社会の生活習慣のルールは道路交通法よりもはるかに複雑で、その全体を各自が意識することは不可能で、ほとんどの人はただ習慣として身に着けているにすぎない。それは言語のようなものだ。
だから、ルールを統一しようとすれば、今まで生きてきて従っていた生活習慣を全部壊さねばならない。ルールの統一は同化政策であり、そこで異なるルールを身に着けていた人々は、幼稚園からのやり直しを迫られる。こんなことに耐えられるわけがない。憎しみはいつでもどこからでも生まれてくる。報復の連鎖を待つまでもない。
棲み分けというのが今のところ唯一合理的な解決策なのは確かだ。同一地域で二つのルールが共存することがなければ、憎しみも生まれにくい。
今の人権思想は同一地域にいくつもの複雑な異なるルールを共存させようとしている。例えていえばマジョリティー同士のいじめは自己責任だが、マイノリティーに対するいじめはいかなるものでも許されない、といったものだ。
様々な異なるマイノリティーに対し、その都度特例を追加してゆくやり方をとっていて、社会のルールが限りなく煩雑化してしまう。凡人にはついてゆけない。それでも容赦なく法で裁かれれば、自ずとそこに憎しみが生じる。
さて、それでは秋の俳諧をもう一つ。「朝顔や」の巻と同じ頃の「初茸や」の五吟歌仙を読んでいこうと思う。
芭蕉と史邦に岱水、半落、嵐蘭を加えてのもので、芭蕉はこの巻と芭蕉・史邦・岱水の三吟歌仙「帷子は」の巻を巻いた後「閉関之説」を書いてしばらく休養に入り、八月には嵐蘭は鎌倉に月見に行き、そのまま帰らぬ人になった。この「初茸や」の巻は嵐蘭と芭蕉が同座する最後の興行となった。
発句は、
初茸やまだ日数経ぬ秋の露 芭蕉
で、初茸はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「初茸」の解説」に、
「〘名〙 (「はったけ」「はつだけ」とも) 担子菌類ベニタケ科のキノコ。日本特産で、夏から秋にかけ、アカマツ林内地上に発生する。全体は淡赤褐色、傷つけると青藍色に変わるため、普通は所々がしみになっていることが多い。傘は径三~一五センチメートルで濃色の環状紋があり、初め扁平、のち縁はやや下に巻くが中央がくぼみ、漏斗状になる。柄は中空で、太いがもろい。広く食用とされる。和名は、秋の早い時期に採れるところからという。あいたけ。あおはち。あおはつ。《季・秋》 〔日葡辞書(1603‐04)〕
※俳諧・芭蕉庵小文庫(1696)秋「初茸やまだ日数へぬ秋の露〈芭蕉〉」
とある。秋の露が降りる頃になると、ほどなく初茸の季節になる。
脇は岱水が付ける。岱水は『炭俵』の時代の江戸を代表する一人とも言えよう。
初茸やまだ日数経ぬ秋の露
青き薄ににごる谷川 岱水
初茸の頃はまだ薄も青く、谷川は秋の雨で濁っている。
第三。
青き薄ににごる谷川
野分より居むらの替地定りて 史邦
「居むら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「居村」の解説」に、
「① (飛び離れた所にある村の土地を出村(でむら)というのに対して) 本村所在の地のこと。
② もともと自分の住んでいる村。
※地方凡例録(1794)四「小作と云は自分所持の田畠を、居村他村たりとも他の百姓へ預け為レ作」」
とある。「替地(かへち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「替地」の解説」に、
「〘名〙 土地の交換、あるいはその土地。また領主が収用した土地、または領主に返還された土地の代地をいう。代替地。
※内閣文庫本建武以来追加‐応永二九年(1422)七月二六日「充二給替地一事」
※仮名草子・むさしあぶみ(1661)下「引料として家壱家(け)に付、金子七十料宛(づつ)給替地(カヘチ)にそへて下されけり」
とある。
台風の水害で大きな被害の出た村が、河川改修によって移動を強いられることになったのだろう。前句の「にごる谷川」を台風の余波とする。
四句目。
野分より居むらの替地定りて
さし込月に藍瓶のふた 半落
半落はよくわからないが元禄十一年刊種文編の『俳諧猿舞師』には「亡人」とある。
前句を藍染の村とする。
藍瓶はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「藍瓶」の解説」に、
「〘名〙 藍染めの藍汁を蓄え、藍染め作業をするかめ。紺屋(こうや)で用いる。あいつぼ。
※財政経済史料‐二・経済・工業・衣服・寛文八年(1668)一二月二六日「藍瓶壱つに付壱斗づつ雖下令二収納一来上」
とある。元禄三年春の「種芋や」の巻十六句目に、
月暮て石屋根まくる風の音
こぼれて青き藍瓶の露 土芳
の句もある。また、元禄五年冬の「洗足に」の巻二十三句目には、
又まねかるる四国ゆかしき
朝露に濡わたりたる藍の花 嵐蘭
の句もある。
初夏に刈り取った蓼藍を瓶に入れて発酵させ、名月の頃には藍染液が出来上がる。発酵の際に水面にできる藍色の泡を「藍の花」という。
差し込む月に本来なら藍の花が美しくきらめくものを、替地への引っ越しのため蓋がされてしまっている。
五句目。
さし込月に藍瓶のふた
塩付て餅くふ程の草枕 嵐蘭
嵐蘭も元禄十一年刊種文編の『俳諧猿舞師』には「亡人」とある。この興行の一か月後に亡くなり、芭蕉は「嵐蘭ノ誄」を記し許六編の『風俗文選』に収められている。
前句を旅の景色として、藍染の家に泊まり、餅に塩をふっただけの質素な食事をとる。
「洗足に」の巻の句といい、嵐蘭は阿波に行ったことがあったのだろうか。
六句目。
塩付て餅くふ程の草枕
なでてこはばる革の引はだ 芭蕉
「引はだ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蟇肌・引膚」の解説」に、
「① 「ひきはだがわ(蟇肌革)」の略。
※文明本節用集(室町中)「皺皮 ヒキハダ」
② 調度・武具などの、蟇肌革を使って作ったもの。
※俳諧・桃青門弟独吟廿歌仙(1680)巖泉独吟「沖みればとろめんくもる夕月夜 雨ひきはたの露をうるほす」
前句の旅人を牢人としたか。
初裏、七句目。
なでてこはばる革の引はだ
年寄は土持ゆるす夕間暮 岱水
「土持(つちもち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「土持」の解説」に、
「〘名〙 土木工事、建築などの際に、畚(もっこ)などで土を運ぶこと。また、その人。
※雲形本狂言・節分(室町末‐近世初)「津の国の中島に、中津川原をせきかねて、土持(ツチモチ)が持ちかねて、しいもちもせで」
とある。
武家などは土木作業に駆り出されたりもする。年寄りはさすがに免除されたのだろう。
この時代よりは後になるが宝暦の頃に木曽三川の改修工事に薩摩藩の武士が動員された。
八句目。
年寄は土持ゆるす夕間暮
諏訪の落湯に洗ふ馬の背 史邦
「諏訪の落湯」は上諏訪温泉のことか。ウィキペディアに、
「建御名方神と喧嘩をした八坂刀売神が諏訪下社に移った時、化粧用の湯玉(湯を含ませた綿)を持ち運んだが、移動途中に湯がこぼれ、雫が落ちたところに湯が湧いた。これが上諏訪温泉の始まりというのである。やがて下社に着いた八坂刀売神が湯玉を置いたところ、地面から温泉が湧き出した。このことから下諏訪温泉は「綿の湯」とも呼ばれる。」
とある。
土木工事で馬を使って土を運んでいたのだろう。年寄りは早い時間に解放されて、温泉で馬の背を流す。
九句目。
諏訪の落湯に洗ふ馬の背
弁当の菜を只置く石の上 半落
甲州街道の馬子の昼食風景だろう。天和三年の「夏馬の遅行」の巻の脇に、
夏馬の遅行我を絵に見る心かな
変手ぬるる瀧凋む瀧 麋塒
の句があるが、これも宿場で馬を替えた時に瀧で馬を洗う風景だと思われる。
十句目。
弁当の菜を只置く石の上
やさしき色に咲るなでしこ 嵐蘭
弁当の菜を置いた石の脇には撫子の花が咲いている。
十一句目。
やさしき色に咲るなでしこ
四ツ折の蒲団に君が丸く寐て 芭蕉
撫子から幼女のこととして、四つに折って小さくした蒲団の上に丸くなって寝ている様を付ける。
「撫子」は本来は撫でて可愛がるような子供のことで、大人は「常夏」という。
十二句目。
四ツ折の蒲団に君が丸く寐て
物書く内につらき足音 岱水
母親であろう。つらい恋の思いを手紙に書いていると、その憎き男の足音がする。
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