台風は熱帯低気圧に変り、こちらでは夜中のうちに通り過ぎた。暑い夏らしい天気になり、もう梅雨明けだろう。
それでは『俳諧問答』の続き。
「一、第三、『あたたかで』の字、難じて云ク、古来より『で』と『て』ハとまりにも嫌ハず。折合にもかまはぬおきてなれば、第三『てどまり』にハ成まじとおもふ。
此句、『にどまり』の句也。但、何の詞にても、第三とまる事あれバ、畢竟ハそれか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.142)
この「あたたかで」の第三のある巻については不明。
脇は体言、第三は「て」か「らん」で留めるのが普通だが、もちろんそんなことは式目にはない。ただ古くから習慣として行われているだけで、稀に例外はあった。
たとえば延宝四年の「此梅に」の巻は、
此梅に牛も初音と鳴つべし 桃青
ましてや蛙人間の作 信章
春雨のかるうしやれたる世中に 信章
貞享元年の「霜月や」の巻は、
霜月や鸛の彳々ならびゐて 荷兮
冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉
樫檜山家の体を木の葉降 重五
元禄三年の「灰汁桶の」の巻は、
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
新畳敷ならしたる月かげに 野水
元禄四年の「梅若菜」の巻は、
梅若菜まりこの宿のとろろ汁 芭蕉
かさあたらしき春の曙 乙州
雲雀なく小田に土持比なれや 珍碩
というように、「て」「らん」以外の第三が用いられている。その意味では「で」で留めても基本的には問題はない。
中世の連歌でも稀にそういう例はある。「顕証院会千句」の第八百韻に、
みだれおふ蓬や萩の朝ねかみ 忍誓
露置ゐたる常夏の秋 原秀
月くらき草の枕の更る夜に 竜忠
とあるし、「湯山三吟」は、第三は「て」留めだが、
うす雪に木葉色こき山路哉 肖柏
岩もとすすき冬や猶みん 宗長
松虫にさそはれそめし宿出でて 宗祇
のように脇が体言止めになっていない。
また、「至徳二年石山百韻」では、
月は山風ぞしくれににほの海 良基
さざ波さむき夜こそふけぬれ 石山座主坊
松一木あらぬ落葉に色かへで 周阿
と「で」留めも用いられている。
ただ、ここで許六が言いたいのは、この場合は「あたたかに」で良かったのではないか、清濁を表示しないのいいことに、「で」を「て」と書いて、いかにも「て」留めを守りましたみたいなのがせこいということなのだろう。
「しかし発句にも過去のしにて切たる発句あり。予おもふニ、達人ハセまじき事とおもふ。しらぬ人此『し』にても切るるとおもふべし。又ハてにはしりたるもの、過去の『し』切字とおもひて置たるなど、嘲り侍るも無念也。人々いひわけも成まじければ、所詮せぬ事たるべしと、予ハ終ニせず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.142~143)
発句の切れ字に用いられる「し」は、
五月雨を集めて早し最上川 芭蕉
のように、普通は形容詞の終止形をいう。
『野ざらし紀行』の三井秋風亭での句、
梅白し昨日や鶴を盗まれし 芭蕉
にしても、「白し」の方が切れ字で、「盗まれし」は切れ字ではないので切れ字は一つしか用いてない。
「但、過去の『し』にて、切字なしの発句にする事也。よき句ならバ、少も憚る事あらず。翁の句に、
ちち母のしきりに恋し雉子の声
かやうの名句ならバ憚るまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)
芭蕉は「きれ字に用ふる字は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也。」と言ったと『去来抄』「故実」にあるが、この許六の難に答えたものか。
中世の連歌でも梵灯の『長短抄』に、切れ字のない発句として「大廻し」と「三体発句」を挙げている。
山はただ岩木のしづく春の雨
は大廻しで、
あなたうと春日の磨く玉津島
は三体発句になる。
ただ、
ちち母のしきりに恋し雉子の声 芭蕉
の句の場合は、恋したという過去形ではなく、恋しいという形容詞ではないかと思う。
「しきりに」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「しきり-に 【頻りに】
副詞
①繰り返し。たびたび。
出典源氏物語 薄雲
「天変しきりにさとし、世の中静かならぬは」
[訳] 天空に起こる異変が繰り返し(起こって)お告げをもって知らせ
、世の中が落ち着かないのは。
②たいそう。むやみに。
出典平家物語 二・大納言死去
「身にはしきりに毛おひつつ」
[訳] (鬼界が島の住人は)身体にはむやみに毛が生えていて。」
とあり、この場合は②の方の意味だから、「恋し」は形容詞になる。①の意味だと度々恋したということになるが、それだと意味が通じない。
「貴句当歳旦ノ第三『で』の事、過去の『し』文字同様、せまじき事と
思ふ。先生いかがおもひ給ふぞ。『で』の字にて、『てどまり』に成るとおもひて仕たるなど、嘲るるも無念歟。
其上、此一句述懐の第三とききなし侍る。いかが。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)
これに対する去来の答えは、先に掲げた『去来抄』「故実」の「先師曰、きれ字に用ふる字は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也。」だと思う。
第三に述懐のような重いテーマはいけないというのもあくまで慣習であり、式目にはない。
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