2019年7月28日日曜日

 台風は熱帯低気圧に変り、こちらでは夜中のうちに通り過ぎた。暑い夏らしい天気になり、もう梅雨明けだろう。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、第三、『あたたかで』の字、難じて云ク、古来より『で』と『て』ハとまりにも嫌ハず。折合にもかまはぬおきてなれば、第三『てどまり』にハ成まじとおもふ。
 此句、『にどまり』の句也。但、何の詞にても、第三とまる事あれバ、畢竟ハそれか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.142)

 この「あたたかで」の第三のある巻については不明。
 脇は体言、第三は「て」か「らん」で留めるのが普通だが、もちろんそんなことは式目にはない。ただ古くから習慣として行われているだけで、稀に例外はあった。
 たとえば延宝四年の「此梅に」の巻は、

 此梅に牛も初音と鳴つべし      桃青
   ましてや蛙人間の作       信章
 春雨のかるうしやれたる世中に    信章

 貞享元年の「霜月や」の巻は、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮
   冬の朝日のあはれなりけり   芭蕉
 樫檜山家の体を木の葉降      重五

 元禄三年の「灰汁桶の」の巻は、

 灰汁桶の雫やみけりきりぎりす     凡兆
    あぶらかすりて宵寝する秋    芭蕉
 新畳敷ならしたる月かげに       野水

 元禄四年の「梅若菜」の巻は、

 梅若菜まりこの宿のとろろ汁     芭蕉
   かさあたらしき春の曙      乙州
 雲雀なく小田に土持比なれや     珍碩

というように、「て」「らん」以外の第三が用いられている。その意味では「で」で留めても基本的には問題はない。
 中世の連歌でも稀にそういう例はある。「顕証院会千句」の第八百韻に、

 みだれおふ蓬や萩の朝ねかみ     忍誓
   露置ゐたる常夏の秋       原秀
 月くらき草の枕の更る夜に      竜忠

とあるし、「湯山三吟」は、第三は「て」留めだが、

 うす雪に木葉色こき山路哉      肖柏
   岩もとすすき冬や猶みん     宗長
 松虫にさそはれそめし宿出でて    宗祇

のように脇が体言止めになっていない。
 また、「至徳二年石山百韻」では、

 月は山風ぞしくれににほの海     良基
   さざ波さむき夜こそふけぬれ   石山座主坊
 松一木あらぬ落葉に色かへで     周阿

と「で」留めも用いられている。
 ただ、ここで許六が言いたいのは、この場合は「あたたかに」で良かったのではないか、清濁を表示しないのいいことに、「で」を「て」と書いて、いかにも「て」留めを守りましたみたいなのがせこいということなのだろう。

 「しかし発句にも過去のしにて切たる発句あり。予おもふニ、達人ハセまじき事とおもふ。しらぬ人此『し』にても切るるとおもふべし。又ハてにはしりたるもの、過去の『し』切字とおもひて置たるなど、嘲り侍るも無念也。人々いひわけも成まじければ、所詮せぬ事たるべしと、予ハ終ニせず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.142~143)

 発句の切れ字に用いられる「し」は、

 五月雨を集めて早し最上川   芭蕉

のように、普通は形容詞の終止形をいう。
 『野ざらし紀行』の三井秋風亭での句、

 梅白し昨日や鶴を盗まれし   芭蕉

にしても、「白し」の方が切れ字で、「盗まれし」は切れ字ではないので切れ字は一つしか用いてない。

 「但、過去の『し』にて、切字なしの発句にする事也。よき句ならバ、少も憚る事あらず。翁の句に、
 ちち母のしきりに恋し雉子の声
かやうの名句ならバ憚るまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)

 芭蕉は「きれ字に用ふる字は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也。」と言ったと『去来抄』「故実」にあるが、この許六の難に答えたものか。
 中世の連歌でも梵灯の『長短抄』に、切れ字のない発句として「大廻し」と「三体発句」を挙げている。

 山はただ岩木のしづく春の雨

は大廻しで、

 あなたうと春日の磨く玉津島

は三体発句になる。
 ただ、

 ちち母のしきりに恋し雉子の声 芭蕉

の句の場合は、恋したという過去形ではなく、恋しいという形容詞ではないかと思う。
 「しきりに」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「しきり-に 【頻りに】
 副詞
 ①繰り返し。たびたび。
 出典源氏物語 薄雲
 「天変しきりにさとし、世の中静かならぬは」
 [訳] 天空に起こる異変が繰り返し(起こって)お告げをもって知らせ

、世の中が落ち着かないのは。
 ②たいそう。むやみに。
 出典平家物語 二・大納言死去
 「身にはしきりに毛おひつつ」
 [訳] (鬼界が島の住人は)身体にはむやみに毛が生えていて。」

とあり、この場合は②の方の意味だから、「恋し」は形容詞になる。①の意味だと度々恋したということになるが、それだと意味が通じない。

 「貴句当歳旦ノ第三『で』の事、過去の『し』文字同様、せまじき事と

思ふ。先生いかがおもひ給ふぞ。『で』の字にて、『てどまり』に成るとおもひて仕たるなど、嘲るるも無念歟。
 其上、此一句述懐の第三とききなし侍る。いかが。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)

 これに対する去来の答えは、先に掲げた『去来抄』「故実」の「先師曰、きれ字に用ふる字は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也。」だと思う。
 第三に述懐のような重いテーマはいけないというのもあくまで慣習であり、式目にはない。

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