今日は旧暦六月二十二日。夏もあと残りわずか。梅雨は明けるのかな。蝉も少しづつ鳴き始めているが。
漫画アニメの貴重な原画はリスクを回避するという意味では分散して保管した方がいいのではないかと思う。
かつて国立メディア芸術総合センターなるものが立案され、そこに貴重な原画を集約して保管しようとしたことがあったけど、そこが焼けたら全部いっぺんに失われることになる。貴重なものほど様々な民間の博物館や個人コレクター(海外も含めて)のもとに分散して存在していた方がいいのではないかと思う。
日本の昔の貴重な絵画も、明治以降かなりのものが海外に流出したが、そのおかげで残っているものも多いと思う。
山田太郎さんの言う「海賊版のアップロード側への対応」「パロディや二次創作の合法化」「日本文化への外国圧力に対抗」「クリエイターの低賃金・長時間労働待遇の見直し」には賛成だが、「メディア芸術センター」は要らないのではないかと思う。メディア芸術への権力の介入を防ぐという意味でも。
それでは『俳諧問答』の続き。
「此句『藪も動かぬ』とハ直し侍れ共、まださし合侍らバ、
月夜の風の嵯峨に吹也
など直しても、一句景曲のあたらしミハつくなり。いくらも直り侍るべし。
藪のなりやむ嵯峨の初春
此『藪も鳴やむ』といふハ、初春をよく見つけたる藪にて、上七字の中ニ十分俳諧あり。『藪も鳴やむ』と云詞ならでハ、此代をする言葉・趣向あるまじ。さすれバ『なりやむ』と云七字より出生の句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.139)
「まださし合侍らバ」というのは、たとえば打越かその前に植物があった場合、「藪」は使えなくなる。そのときは、
皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ
月夜の風の嵯峨に吹也
と変えればいい。
連歌や俳諧で句を付ける人は、その場での使える言葉使えない言葉から、常にどう言い換えればいいのかを考えている。そこから言わずしてほのめかす技術が発達した。式目をどうかいくぐるかが俳諧師の腕の見せ所と言ってもいいだろう。
ただ、この言い換えだと「有明」が消えている。明け方の静寂を月の清々しさで代用したということか。
皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ
藪のなりやむ嵯峨の初春
は秋に展開できず、しかも月が既に出てしまっている場合であろう。
木枯らしに悲しげな音を立てていた藪も、春になって穏やかな日和になるのを、「数珠のたふとさ」とする。
初春へ転ずることが必然なら、「藪も動かぬ」は「藪のなりやむ」になる。
俳諧の練習というのはこういうことだったのだろう。これはいいと思った句が思い浮かんでも、式目上無理な場合が多々ある。こういう時にうまく言い換えられるのは日頃の鍛錬といえよう。こういう訓練は日常的にも、タブーとされる言葉を言い換えるだとか、角の立つ言葉を和らげるだとか、いろいろ応用が利く。
「只形のよく似たるまでにて、魂各別の句也。似たるなど論ずる人あり共、耳にかけべからず。
但、去年尾張か伊勢かの歳暮三ッ物の中に、『藪のがさつくとしのくれ』とやら、『寒さ哉』とやらいへる句ありとおぼえ侍る。是、季ハかハり、詞もいひかへたりといへ共、元来の趣向、俳諧の気のつけ所おなじ所なれバ、作例といはむか。其上、大綴に出たる三ッ物帳の中なれバ、よく見覚えたる人もあるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.139~140)
「藪も動かぬ嵯峨の有明」と「藪のなりやむ嵯峨の初春」は、月をだせないだとか、秋ではなく春にしなくてはいけないだとかいう事情の違いから、まったく違う趣向の句になっている。元の句を直したのだから形は似ているが、別の所でこの句を詠んだとしても等類ではない。
方や静まり返った明け方の静寂で、方や木枯らしの止んで春の訪れを喜ぶ句になる。
前句との関係でも、有明は死者を弔う数珠に付き、初春は尊さに付く。まったく別の句といえる。
ただ、初春の方は「藪のがさつくとしのくれ」というフレーズが去年の歳暮三つ物のなかにあり、年の暮れは藪ががさついてたが初春には鳴り止むと、同じことを歳暮の側から詠むか初春の側から詠むかの違いだけになる。
これでいくと、たとえば「いと涼しき」の巻の十三句目の、
座頭もまよふ恋路なるらし
そびへたりおもひ積て加茂の山 桃青
と七十二句目の、
来て見れば有し昔にかはら町
小石をひろひ塔となしけり 信章
は石を積んで塔を立てるというのは一緒だが、芭蕉(桃青)の句は恋の思いの募る句なのに対し、素堂(信章)の句は追悼の思いの募る句となっている。
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