夏だというのに涼しい日が続いている。一九九三年以来のことだという声もある。あの年は米が不足して、急遽外米を輸入したが、今年もタイ米が食べられるのかな。
筋少の替え歌で、♪タイの米を知っているのか?‥‥知らないのかピラフ・リゾット・チャーハンにすると美味いんだ。
さて、「忘るなよ」の巻の続きだが、初裏は己百と不玉の両吟になる。己百(きはく)は美濃の人。weblio辞書の「芭蕉関係人名集」に、
「岐阜の日蓮宗妙照寺住職日賢和尚。貞亨五年の笈の小文の旅中に芭蕉を京都に訪ねて入門。「しるべして見せばや美濃の田植え歌」という句で芭蕉を誘って美濃に案内したことで有名。『あら野』・『花摘』・『其袋』などに入句。」
とある。貞享五年六月十九日興行の「蓮池の」の五十韻に参加している。
かし立岨の風のよめふり
古寺の瓦葺たる軒あれて 己百
みどりなる朴の木末の蝉の声
弁当あらふ清水なりけり 同
籬の月にくるま忍ばせ
この里に籾するおとのさらさらと 同
の三句を詠んでいる。
その己百から。
初裏、七句目。
漏もしどろに晴るる村さめ
笠島を見による筈の馬かりて 己百
これは、
笠島はいづこさ月のぬかり道 芭蕉
の句を知ってたのだろうか。曾良の『俳諧書留』に、
泉や甚兵はに遺スの発句・前書。
中将実方の塚の薄も、道より一里ばかり
左りの方にといへど、雨ふり、日も暮に
及侍れば、わりなく見過しけるに、笠島
といふ所にといづるも、五月雨の折にふ
れければ
笠島やいづこ五月のぬかり道 翁
とある。この句は既に出来ていたので、芭蕉か曾良から聞いた可能性はある。
中将実方は任地に赴く途中、この笠島の道祖神の前を通るとき、馬から降りて拝んで行くこともなしに、そのまま馬に乗って通り過ぎようとしたところ、社の前でばたっと馬が倒れて実方は転がり落ちて死んだという。
馬から降りずに通り過ぎるのではなく、わざわざ笠島の道祖神を見に行くくらいの信仰があるなら、村雨も晴れてくれることだろう。芭蕉は雨の中結局たどり着けなかったが。
八句目。
笠島を見による筈の馬かりて
入日かがやく藪のはりの木 不玉
打越の「晴るる村さめ」とやや被っている感じがする。「はりの木」は榛(はん)の木のこと。湿地に森林を形成する。
九句目。
入日かがやく藪のはりの木
足うらの米をいただく里神楽 不玉
神事では邪気を払うために散米を行う。それが足の裏にくっ付くので、ありがたく頂戴する事にする。
十句目。
足うらの米をいただく里神楽
むすめなぶれば襟をつくろふ 己百
「なぶる」は今日で言えば「いじる」ということか。一種のイジメだが暴力的ではなく、周囲を笑わせるためにやることが多い。ただ、何事も行き過ぎはいけない。
里神楽に集まった娘達が誰かをいじってはしゃいでる姿だろう。ふと我に返って乱れた襟を整える。
十一句目。
むすめなぶれば襟をつくろふ
待宵に枕香炉のほのめきて 己百
「枕香炉」は「香枕」とも「伽羅枕」ともいうい。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の「香枕」には、
「枕の中に香をたく仕掛けのあるもの。多く、表面に蒔絵(まきえ)を施す。香の枕。きゃら枕。こうちん。」
とあり、同じく「伽羅枕」のところには「遊女などが用いた」とある。
遊女が香をたいて客を待つ間、女同士で誰かをいじっては笑ったりしていたのだろう。「待宵」で月呼び出しになる。
十二句目。
待宵に枕香炉のほのめきて
横川に月のはづる中ぞら 不玉
「横川(よかわ)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「滋賀県大津市坂本本町にある比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の三塔の一つ。第3代天台座主(てんだいざす)円仁(えんにん)が横川を開き、根本如法(こんぽんにょほう)塔を中心に諸堂が建てられた。967年(康保4)横川に住房をもつ良源(りょうげん)(慈慧(じえ)大師)が座主となると、横川は繁栄し、台密(たいみつ)の覚超(かくちょう)の系統が川流(かわりゅう)として栄えた。恵心僧都(えしんそうず)源信(げんしん)(942―1017)は横川恵心院に住して浄土教を鼓吹し、恵心流の祖とされる。道元や日蓮(にちれん)も横川で学問修行した。未来の弥勒菩薩(みろくぼさつ)下生(げしょう)の地という信仰も生まれた。[田村晃祐]」
とある。
横川は延暦寺の中央からやや外れた場所にあるが、数々の名僧を輩出した場所でもある。
前句の枕香炉をお寺で焚く香のこととし、中央よりやや外れた場所だが真如の月の輝く場所として「横川」を付けている。
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