梅雨の末期になると毎年のようにどこかが豪雨に見舞われ、大きな水害が発生する。昔から繰り返されてるのだろうけど、これだけ文明の世になってもどうすることもできないことはまだある。人智の及ばぬ所それは結局「天」なのか。
どこかの国では国策で漫画やアニメの作家を養成しようとして失敗したようだが、文学も芸術も国家は過剰な干渉をしないほうがいい。むしろ放っておいて自由にやらせたほうがいい。
日本が誇る今日のクールジャパンも、学校では習わないばかりか、どれもこれも教育に有害だとされてきたものばかりだし、それでも好きなものに賭ける情熱は止められない。本来文学も芸術もそういうものではないかと思う。
文学芸術に必要なのは自由な制作意欲と、そして多様性だ。美というのが当面役に立たない秩序のストックであるならば、そのストックは多種多様であればあるほど良い。多様性こそが美の本質だ。決してたった一つの美なんてものはない。
自由のない独裁国家ではどんなに権力者が力を入れて芸術を振興しようとも、みんなどこかで見たようなコピーばかりになる。
芸術というのは、みんなが自由にいろいろなものを作りあって、面白いものはこぞって取り入れ、つまらないものは自然と忘れてゆく、それによって自然淘汰が働き進化してゆくものだ。
芭蕉の時代の俳諧もこうしたエネルギーに満ち溢れていた。江戸幕府が俳諧師を養成したなんて話は聞かない。みんな「かまわぬ」から生まれた。
さて、今日から水無月。朔日ということで、地球の反対側では日食もあった。この鈴呂屋でも水無月の俳諧を読んでいこうと思う。
談林のスピード感と対照的なのが、蕉風確立期の蕉門で、特に『奥の細道』の旅の途中の曾良の日記なんかを見ると、興行は遅々として進まず、歌仙一巻に二日三日かかってたりする。
今回取り上げるのはその三日かかったという歌仙を取り上げてみようと思う。
別に素人が混ざっていたから遅くなったというわけでもない。メンバーは芭蕉、曾良、そして酒田の不玉の三人、三吟歌仙だ。
発句は、
出羽酒田 伊東玄順亭にて
温海山や吹浦かけて夕凉 芭蕉
の句で、『奥の細道』にも記されている。『奥の細道』にはこうある。
「羽黒を立(たち)て鶴が岡の城下、長山氏(ながやまうぢ)重行と云(いふ)物のふの家にむかへられて、誹諧(はいかい)一巻有(あり)。左吉も共に送りぬ。川舟に乗(のり)て酒田の湊(みなと)に下る。淵庵不玉(ゑんあんふぎょく)と云医師(いふくすし)の許(もと)を宿(やど)とす。
あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕すゞみ
暑き日を海にいれたり最上川」
伊東玄順はこの淵庵不玉のことで、名は玄順、俳号は不玉、医号は淵庵だった。
句の方は「温海山(あつみやま)」という今日のあつみ温泉のあるあたりの地名に、「吹浦(ふくうら)」という最上川が海に注ぐあたりの地名を並べることで、暑い所に風が吹いて夕涼みとする。温海山は酒田の南、吹浦は酒田の北ということで、正反対の景色が詠み込まれている。
「温海山に吹浦(を)掛けて夕涼みや」の倒置になる。
これに対し、亭主の不玉はこう和す。
温海山や吹浦かけて夕凉
みるかる磯にたたむ帆筵 不玉
「みる」は水松・海松といった字を当てる。海藻で古くから食用にされていた。そのミルを刈る磯に「たたむ帆筵」と停泊することで、芭蕉にここにしばらく帆をたたんで滞在していって下さいというもてなしの心とする。
第三は曾良が付ける。
みるかる磯にたたむ帆筵
月出ば関やをからん酒持て 曾良
帆筵を畳んだ船乗り達が、関所の番人の寝泊りする小屋を借りて月見酒、と展開する。
このあたりで関というと、温海山の南に鼠ヶ関がある。その向こうは越後の国の村上になる。
四句目。
月出ば関やをからん酒持て
土もの竃の煙る秋風 芭蕉
「土もの」は陶器のことをいう。秋風に乗って流れてくる陶器工場の煙が煙たいので関屋を借りようとなる。
五句目。
土もの竃の煙る秋風
しるしして堀にやりたる色柏 不玉
秋風というと、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
藤原敏行(古今集)
の歌が思い浮かぶが、秋風の目に見えるしるしとして、柏の葉が色づいて秋風に堀に散っている。
六句目。
しるしして堀にやりたる色柏
あられの玉を振ふ蓑の毛 曾良
色づいた柏の散る堀の情景を冬の来る印として、蓑を来た船頭が霰の玉を振い落とす。その蓑もかなり痛んで毛羽立っている。
談林の頃のような本歌や謡曲や付け合いで付けるのではなく、前句にふさわしい景物を選んでは付けている。これだとどうしても展開は重くなり、一句ひねり出すのに時間がかかってしまう。
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