水無月の俳諧ということで「温海山や」の巻を読んできたが、もう少しここに留まりたい。
『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)だと、次に「忘るなよ(四句)」というのが載っている。
曾良の『俳諧書留』だと、「温海山や」の巻のあと、象潟の句に戻って、そのあと
羽黒より被贈
忘るなよ虹に蝉鳴山の雪 会覚
杉の茂りをかへり三ヶ月 芭蕉
磯伝ひ手束の弓を提て 不玉
汐に絶たる馬の足跡 曾良
海川や藍風わかる袖の浦 曾良
とあって、そのあと直江津の「文月や」の巻になる。
「温海山や」の巻が六月十九日日から二十一日で、象潟は六月十六日から十八日になる。それよりもさらに戻って六月十三日、羽黒山から最初に酒田に向かう時の『旅日記』にはこう記されている。
「一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻ヨリ曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭ヘ音信、留守ニテ、明朝逢。」
とある。会覚の発句はこのときのものと思われる。ただ、この日には玄順(不玉)には会えなかったので、四吟はこの日ではない。
この日は羽黒山南谷から最上川まで行き、船で最上川を下り酒田に行く。最上川に出るまでが五里、そこから酒田までが七里ということか。
船出のときに羽黒山から飛脚が来て浴衣二着と発句が贈られてくる。何で浴衣がというところだが、このあたりには温泉が多いからだろうか。
この翌日の『旅日記』にはこうある。
「○十四日 寺島彦助亭ヘ被招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。」
このときの「俳」は
凉しさや海に入たる最上川 芭蕉
を発句とする。この興行に不玉も参加しているから、無事に会えたのであろう。
翌十五日には象潟へ向うが、このときにも不玉は同行し、
象潟や汐焼跡は蚊のけふり 不玉
の句を詠んでいる。残念ながら『奥の細道』には入らなかった。
象潟から酒田に帰ると、「温海山や」の巻を三日かけて巻くことになる。
十八日に象潟から酒田に戻る。曾良の『旅日記』には、
「十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。」
とある。「橋迄」は象潟橋(欄干橋)でここから鳥海山が見える。帰りは船に乗ったのだろう。「アイ風」は岩波文庫の『芭蕉おくのほそ道』の注に、
「藍風。『北国にては東風をあゆの風といふ』(物類呼称)。」
とある。
海川や藍風わかる袖の浦 曾良
の句はこの時のものだろうか。
ここでふと思うのは、淇水編『俳諧袖の浦』(明和三年刊)に「この巻の初め半折ばかりは、袖の浦に舟を浮かべての吟」とあるのは、前日の象潟からの帰りのときの船旅と混同されてた可能性がある。この時の温海山から吹浦にかけての眺望をもとに、翌日の興行が成されたのではなかったか。
むしろ、この船旅のときの吟は、あの四句だった可能性がある。
忘るなよ虹に蝉鳴山の雪 会覚
山の雪は月山の山頂付近のもので、『奥の細道』にも「氷雪を踏てのぼる事八里」とあるし、南谷でも「雪をかほらす」と詠んでいる。
滞在中に虹が出たこともあったのだろう。曾良の『旅日記』には「五日 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。」とあるし、月山や湯殿山を廻った時は晴れていたが、八日にはまた「朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴」とあるし、十一日、十二日にも村雨が降っている。
まあ、この楽しかった時のことをどうか忘れないでいてください、ということなのだろう。これに芭蕉は、
忘るなよ虹に蝉鳴山の雪
杉の茂りをかへり三ヶ月 芭蕉
と和す。「蝉鳴く山」に「杉の茂り」と応じ、かえり見ると三日月を掛けて、あの杉の山の上に見た三日月のことは今でも忘れませんと答える。
杉の茂りをかへり三ヶ月
磯伝ひ手束の弓を提て 不玉
「手束(たつか)弓」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「手に握り持つ弓。たつかの弓。
※万葉(8C後)一九・四二五七「手束弓(たつかゆみ)手に取り持ちて朝狩に君は立たしぬたなくらの野に」
※散木奇歌集(1128頃)恋下「つくつくと思ひたむればたつかゆみかへる恨みをつるはへてする」
とある。「提て」は「ひっさげて」と読む。いにしえの狩人に思いを馳せて、いつしか日も暮れ三日月をかえりみるとする。
磯伝ひ手束の弓を提て
汐に絶たる馬の足跡 曾良
砂浜だけに狩人の乗る馬の足跡は波が消してゆく。
この四句は芭蕉と曾良が去った跡、不玉の手によって第三から先が作り直され一の懐紙が満たされ、それに更に後になってから支考と如行が二の懐紙を両吟で仕上げ、歌仙一巻となる。
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