今日は旧暦七月一日で今日から俳諧は秋になる。
新暦でも八月一日で、今年は月遅れ七夕や月遅れ盆がそのまま旧七夕・旧盆になる。こういう年も珍しいのではないか。
臨時国会が始まり、重度の障害を持つ舩後さん木村さんもたくさんの人の協力の中、無事に登院することができた。今後この二人の活躍によって、障害者が公的介護を受けながら働けるような法制度が作られてゆくことになるのか、応援していきたい。
せっかく登院できる環境が出来たのだから、くれぐれも野党の悪弊の審議拒否なんてしないでほしい。
それでは「俳諧問答」の続き。
「惣別おもき・かるきといふ事、趣向又ハ詞つづき容易なるを、かるきとおぼえ侍りて、上をぬぐひたるやうなる句、此ごろいくばくか侍る。それハうつけたるといふものにて、かるきといふ物ニハなし。
面白俗のよろこぶ所のしミつきたるごとき事を、おもきとハいふ也。かるきと云ハ、言葉ニも筆にものべがたき所ニ、ゑもいはれぬ面白所あるを、かるしとハいふ也。
かるきとて、おもしろミのなき事ハ、うつけたるといふ物也。
此事翁にたづねて、よく究置き侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.147)
元々は出典に寄りすぎた句を重しと言い、そこから抜け出そうとするところに軽みの風が生まれた。
たとえば延宝四年の「此梅に」の巻、十五句目の、
森の下風木の葉六ぱう
真葛原ふまれてはふて逃にけり 信章
の「木の葉」に「真葛原」は重く、元禄五年の「洗足に」の巻の、
今はやる単羽織を着つれ立チ
奉行の鑓に誰もかくるる 芭蕉
は出典や古典の趣向に頼らずに自由に付けているから軽みになる。
一見すると日常の言葉と発想で付ければ軽く、古典の言葉が入っていれば重いというふうに受け止められやすい。
軽みというのは古典の言葉が入っていても問題はない、ただオリジナルに寄りすぎずにイメージを展開できるかどうかの問題になる。そこが本説付けと俤付けの境界にもなる。
たとえば「此梅に」の巻の六十一句目、
能因法師若衆のとき
照つけて色の黒さや侘つらん 信章
は先の「都をば霞とともに立ちしかど」の歌の十訓抄や古今著聞集のエピソードをほとんどそのままなぞっている。
これに対し元禄三年の「市中や」の巻の、
草庵に暫く居ては打やぶり
いのち嬉しき撰集のさた 去来
の句は、前句を西行法師の俤として、晩年自分の歌が『千載集』に入集したのを知った時は、さぞかし小夜の中山ではないが「命なりけり(生きててよかった)」と思ったに違いないという句で、出典となるような伝承は特にない。想像で作ったという所に「軽み」がある。
ちなみにこの句は最初「和歌の奥義をしらず」というような句だったらしい。これは『吾妻鏡』の西行と頼朝が会ったときの話で、「詠歌は、花月に対し動感の折節、僅かに三十一字ばかりを作るなり。全く奥旨を知らず。」を出典としている。出典にべったりとくっ付いた重い句だった。
重いというのは出典にもたれて新味がない、新たな動きがない、ということで、それをあえてはずして初期衝動のままに自由な想像をめぐらしてゆくところに軽みが生じる。
これを理解せずに、ただ言葉が軽ければいいということになると、中身のない句が軽く、シリアスなテーマの句は重いと誤解することになる。今の俳人でも結構そう思っている人が多いのではないか。
「上をぬぐひたるやうなる句」見える所だけさっと雑巾でぬぐったような、表面的には綺麗だが中身のない句ということで、「うつけたる(中身がない)」ということになる。
「面白俗のよろこぶ所のしミつきたるごとき事を、おもきとハいふ也。」と許六が言うのは、要するに流行に対する感性の鈍い人は、新しいネタをやってもきょとんとしていて、昔からある古いネタをやると、ああそれは知ってるとばかりに笑ったりする。俳諧でも古典にべったりと付いた句は、世間の話題についていけなくなったお年寄りには喜ばれたのではないかと思う。
「かるきと云ハ、言葉ニも筆にものべがたき所ニ、ゑもいはれぬ面白所あるを、かるしとハいふ也。」というように、最先端の笑いは頭で理解するよりもまず感性に訴えかけてくる。ただ、それで中身がなければただの「うつけたる」句になる。
「又予が句、木曾山中にて、
山吹も巴も出る田植かな
是談林時代の句によく似たれ共、大きに相違也。
談林の時代ハ、山吹・巴ニ直ニ田を植さセ侍るヲ、はたらきとハ申也。
此句、山吹・巴はかり物にて、只田植の上をよくいはむ為斗ニ、かり用ひ侍るなり。嫂も、娘も、里にハ残りたるもの一人もなく出たると、見るやうにいはむ噂さ也。
時代をよくしらぬ作者ともの論ずる事は、申までハなく侍れ共、かならずかならず耳にきき入給ふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.147~148)
この場合の「山吹」は植物(うゑもの)に非ず。源義仲の便女の山吹御前のことをいう。そうなると「巴」も巴御前ということになる。
山吹も巴も出る田植かな 許六
というのは、木曾義仲の俤を借りて、山吹御前も巴御前もいつしか戦列を離れて行き、独り落ち延びての田植とするが、この俤はあくまで比喩であって、「嫂も、娘も、里にハ残りたるもの一人もなく出たる」という一人淋しく田を植える姿が本来意図したところだった。
山吹御前や巴御前など『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する二人の美女を並べるあたりは、談林の流行期に好まれた趣向だったのだろう。
山吹御前と巴御前に田植をさせるというのはやや無理な感じもするが、
山吹も巴も舞えや田植歌
くらいだったらありそうか。談林の頃だと、比喩だとか俤だとかではなく、あくまで古典の人物と卑俗な田植とのギャップあたりに笑いをもっていきそうだ。
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