暑い日が続く。昨日は久しぶりに月を見た。ほぼ満月だった。
それでは「哥いづれ」の巻の続き。
二表、二十三句目。
売かしとぢた門の藤なみ
かすんだる大豆は馬より高ばりて 貞徳
「大豆」は「まめ」と読む。余談だが横浜市港北区に大豆戸(まめど)という地名がある。
貞徳自注に、
「とち大豆(まめ)と云ものあり。策餅の名をふぢ花とも又馬とも云。」
とある。
当時の人ならわかったのかもしれないが、さすがにこれは注釈なしでは何のことか分からなかった。蕉門でもこういう句はたくさんあるのだろう。
注にある「策餅」はウィキペディアに、
「索餅(さくべい)とは、唐代の中国から奈良時代に日本に伝わった唐菓子の1つで素麺の祖となったとも言われている食品のこと。縄状の形状より麦縄(むぎなわ)とも呼ぶ。江戸時代中期に姿を消したともいわれるが、現在でも奈良など各地で、しんこ菓子(しんこ、しんこ団子、しんこ餅)に姿を変えて存続している。」
とある。
『連歌俳諧集』の注では『嬉遊笑覧』巻十上の「藤の花」「しんこ馬」が引用されている。
「○白石が餲餬の形を云たる(前にみゆ)にささ餅の中にさる形なるがありといへり
ささ餅とはしんこなるべし
[料理物語]に見えたり染て色々に作れば定りたる形なきにや
作りたる形に付きて白糸のあこやなど名付[続山井]餅雪を白糸となす柳かな(松尾宗房)
白糸の餅に赤小豆を付らるを藤の花といふ(絵行器の処にいへり)
藤の花また藤の実とも云にや
寛文元年成安撰める[埋草]藤の実咲かば鞍おけしんこ馬と云発句あり
又しんこ馬は[毛吹草]にしんこ馬も今やひくらんもち月夜など出たり
馬形造りたる真粉なるべし
又馬形ならねども後に白糸餅をやせうまと呼
これは餅のうまき馬といひ細きもの故痩といひたるなり
灯草をやせ馬と云と同じ
又しんこの鳥は後にいへり」
とある。
「餲餬(かつこ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 昔、節会(せちえ)や大饗(だいきょう)の折に出した唐菓子の一種。饂飩粉(うどんこ)をこねて虫の蝎(かつ)の形に丸め、油で揚げたもの。〔十巻本和名抄(934頃)〕」
とある。
うるち米を挽いた糝粉(しんこ)をこねて作った糝粉細工というものがあって、笹の葉の形にしたのを笹餅という。糝粉は今日では「上新粉」と呼ばれている。
かつては様々な糝粉細工があって、白糸の餅に赤小豆を付たものを「藤の花」と呼び、馬の形にしたものを「しんこ馬」と言っていた。
餅雪を白糸となす柳かな 宗房
藤の実咲かば鞍おけしんこ馬
しんこ馬も今やひくらんもち月夜 弘永
などの発句もあった。
貞徳の句のほうは、霞んだ(ほんの少しでも)豆を使ったものはしんこ馬より高いので、藤なみを売ってくれと思うのだけど門は閉ざされている、となる。
とち大豆はよくわからないが、高価なものというと丹波大納言小豆か。
二十四句目。
かすんだる大豆は馬より高ばりて
陣ひやうらうのきれはつる時 貞徳
軍(いくさ)の時の兵糧が足りなくなると、商人たちは足元を見て米麦はもとより豆すらも値段を吊り上げて馬より高くなる。
貞徳自注に、
「五こく大切のこころなり。」
とある。兵糧の確保は早めに計画的にというところか。
二十五句目。
陣ひやうらうのきれはつる時
城よりもあつかひかふはかれしらや 貞徳
『連歌俳諧集』の注に「こふはうれししや」の間違いだとある。
「あつかひ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①(客の接待・育児・看病など)世話をすること。
②(訴訟・争い事などの)調停・仲裁。また仲裁人。
③示談。」
とある。
城の方から調停の話が来るのはありがたい。ちょうど兵糧も尽きたところだ。
本来は説明の必要もない句で、自注も不用だったのだろう。ただ、そのせいで途中で書き誤ってしまったか。
二十六句目。
城よりもあつかひかふはかれしらや
黒の碁かつと兼てさまうす 貞徳
「さまうす」は「さ(そのように)申す」。
貞徳自注に、
「御勝に碁を立入たり。城を白にとりなす也。」
とあるように、黒の碁が優勢なので白が投了する。
二十七句目
黒の碁かつと兼てさまうす
文王の世や民にてもしらるらん 貞徳
貞徳自注には、
「黒を田の畔(くろ)にとりなす也。文王民畔をゆづると云事、いまだ国の世にならぬ先也。加様に仁にて紂に勝給ふ也。」
とある。「譲畔而耕」の出典は『史記』周だという。
碁を観戦している人が、黒が勝ったのを見て、やはり文王の「畔(くろ)」の方が勝つな、と薀蓄を垂れたのだろう。文王の故事は日本の庶民の間でも広く知られていた。
二十八句目。
文王の世や民にてもしらるらん
しやれたるほねをとりかくしつつ 貞徳
「しゃれたるほね」はしゃれこうべのこと。
『連歌俳諧集』の注に、「周の文王が霊台を治めて死人の骨を得、五太夫の礼をもって葬ったという故事。『淮南子』人間訓にある。」とある。
「文王」の名が出てしまい、展開が重くなる所だが、文王の別の故事で切り抜ける。
貞徳自注に、
「曠野にある白骨を見たまふに、我国の民は我子と同じとてとりをさめ給ふ也。」
とある。
二十九句目。
しやれたるほねをとりかくしつつ
あらをしや家に伝る舞あふぎ 貞徳
前句の「しゃれたるほね」をしゃれこうべではなく「洒落たる骨」とし、扇の骨とする。「とりかくしつつ」を盗って隠したとする。
貞徳自注に、
「とりかくすは人のぬすみたるなり。」
とある。
三十句目。
あらをしや家に伝る舞あふぎ
あるる鼠をにくむ幸わか 貞徳
「あるる」は「荒るる」で荒ぶるに同じ。「幸わか」は幸若舞の役者のこと。ウィキペディアには、
「幸若舞は、中世から近世にかけて、能と並んで武家達に愛好された芸能であり、武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多く、これが共鳴を得たことから隆盛を誇った。一ノ谷の戦いの平敦盛と熊谷直実に取材した『敦盛』は特に好まれた。」
とある。幸若舞にはいくつもの流派があり、それぞれ代々伝わる扇があったのだろう。それを鼠に食われてしまったのではしょうがない。
貞徳自注に、
「前句の舞、遊舞たるにより幸若同意ならず。」
とある。前句の扇は舞うときにひろげる普通の扇だが、幸若舞の扇は拍子を取るための張扇なので、前句と違えている。このあたりも輪廻を避けて、より大きな展開を図るための工夫が見られる。
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