「哥いづれ」の巻の続き。
七十三句目。
おとす尺八何としてまし
礼をなす沙門も公家も手すくみて 貞徳
貞徳自注に、
「尺八を公家の笏と沙門の躰にとりなすなり。」
とある。
躰(体)は鉢の間違いだろう。
前句を「おとす笏・鉢」として、手がすくんで公家は笏、沙門は鉢を落とすとする。
七十四句目。
礼をなす沙門も公家も手すくみて
仏名の夜ぞいかうあれける 貞徳
貞徳自注に、
「師走に内裏にて仏名をよませらるる事あり。」
とある。
仏名の夜は仏名会(ぶつみょうえ)のこと。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「『仏名経』 (12巻) を読誦する法会。陰暦 12月 19日から3日間,清涼殿や諸国の寺院で行われた。5~6世紀の中国で種々の仏名経典が翻訳,編集されたが,菩提流支の訳した『仏名経』には1万 1093の仏陀,菩薩の名前が列挙されている。」
とある。
沙門も公家も手がすくむのは、寒さのせいだった。ただでさえ寒い師走の夜に吹雪いたりしたら、手がかじかんで動かなくなるのも仕方ない。
七十五句目。
仏名の夜ぞいかうあれける
障碍をや師走の月の天狗共 貞徳
「障碍(しょうげ)」はウィキペディアに、
「仏教用語で、障碍とは、煩悩障と所知障の2つであり、心を覆い隠し悟りを妨げている2つの要素を意味する。」
とある。
仏名会の夜に荒れ狂うのは月に浮かれた天狗だった。これも障碍だろうか。
貞徳自注に、
「寒のあるるを天狗にとりなす也。」
とある。
日本では障害者の「害」がいけないというので、「障碍者」と表記しろという声があるが、「障碍」も邪魔になる、妨げになるという意味なので、たいして変わらないように思える。以前冗談で、いっそのこと「勝凱者」とでもすればかっこいいのではないかと書いたことがあったが。
英語のhandicapped personでも、帽子を手に持って物乞いをする人が語源なので使うなだとか、a disabled personも無能という意味なので駄目だとか、いろいろあるらしい。
七十六句目。
障碍をや師走の月の天狗共
紅粉に木の葉の散てまじれる 貞徳
貞徳自注に、
「師走紅粉に木の葉天狗といふより合也。」
とある。
「師走紅」はジャパンナレッジの「日本国語大辞典」に、
「〔名〕陰暦一二月の寒中に精製した紅。→寒紅。*俳諧・崑山集〔1651〕一二冬「冬山に残る紅葉や師走紅粉〈玄?〉」
とある。
「木の葉天狗」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 威力のない小さい天狗。こっぱてんぐ。
「いかに―たち、疾(と)う疾う出でられ候へ」〈謡・鞍馬天狗〉
2 風に舞い散る木の葉を、空を自在に飛び回る天狗にたとえた語。
「時雨にも化くるは―かな」〈鷹筑波・四〉」
江戸中期になると鳥の姿をした独自の妖怪として確立されてゆく。
ここでは「より合」とあるように、師走に紅粉、天狗に木の葉が付け合いで、言葉の縁で登場させているにすぎない。
前句の天狗共を天狗風(つむじ風)のことと取り成し、紅葉に普通の木の葉が混ざって吹き上げられている、となる。
七十七句目。
紅粉に木の葉の散てまじれる
もやうよく染し小袖を龍田川 貞徳
前句を小袖の模様とする。貞徳自注はない。説明の必要もないというところか。
七十八句目。
もやうよく染し小袖を龍田川
りんきいはねど身をなげんとや 貞徳
「りんき(悋気)」はやきもちのこと。
貞徳自注に、
「是は業平の河内通ひの比、有常の娘の身をもなげ用意するかと云様成思やり也。」
とある。
業平の河内通いは『伊勢物語』二十三段の「筒井筒」でも有名な話で、この筒井筒の女が紀有常の娘とされている。
業平が河内の女のところに通っているのを、有常の娘は嫉妬もせずに、
風吹けば沖つ白波たつた山
夜半にや君がひとり越ゆらむ
きちんと化粧して、とけな気にも業平のことを信じて心配している。
句の方では嫉妬はしないが身投げはすると展開する。本説もそのまんまでなく、少し変えるというのは分かるが、どこから「身投げ」が出てきたのか。
おそらく、
ちはやぶる神代もきかず竜田川
からくれなゐに水くくるとは
在原業平
の歌の最後の「水くくるとは」を水でくくり染めにするという元の意味を、水に潜るとした洒落からきたのだと思う。
この洒落は後に古典落語の「千早振る」にも受け継がれている。
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