2019年8月26日月曜日

 「哥いづれ」の巻の続き。

 七十三句目。

   おとす尺八何としてまし
 礼をなす沙門も公家も手すくみて   貞徳

 貞徳自注に、

 「尺八を公家の笏と沙門の躰にとりなすなり。」

とある。
 躰(体)は鉢の間違いだろう。
 前句を「おとす笏・鉢」として、手がすくんで公家は笏、沙門は鉢を落とすとする。
 七十四句目。

   礼をなす沙門も公家も手すくみて
 仏名の夜ぞいかうあれける      貞徳

 貞徳自注に、

 「師走に内裏にて仏名をよませらるる事あり。」

とある。
 仏名の夜は仏名会(ぶつみょうえ)のこと。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「『仏名経』 (12巻) を読誦する法会。陰暦 12月 19日から3日間,清涼殿や諸国の寺院で行われた。5~6世紀の中国で種々の仏名経典が翻訳,編集されたが,菩提流支の訳した『仏名経』には1万 1093の仏陀,菩薩の名前が列挙されている。」

とある。
 沙門も公家も手がすくむのは、寒さのせいだった。ただでさえ寒い師走の夜に吹雪いたりしたら、手がかじかんで動かなくなるのも仕方ない。
 七十五句目。

   仏名の夜ぞいかうあれける
 障碍をや師走の月の天狗共     貞徳

 「障碍(しょうげ)」はウィキペディアに、

 「仏教用語で、障碍とは、煩悩障と所知障の2つであり、心を覆い隠し悟りを妨げている2つの要素を意味する。」

とある。
 仏名会の夜に荒れ狂うのは月に浮かれた天狗だった。これも障碍だろうか。
 貞徳自注に、

 「寒のあるるを天狗にとりなす也。」

とある。
 日本では障害者の「害」がいけないというので、「障碍者」と表記しろという声があるが、「障碍」も邪魔になる、妨げになるという意味なので、たいして変わらないように思える。以前冗談で、いっそのこと「勝凱者」とでもすればかっこいいのではないかと書いたことがあったが。
 英語のhandicapped personでも、帽子を手に持って物乞いをする人が語源なので使うなだとか、a disabled personも無能という意味なので駄目だとか、いろいろあるらしい。
 七十六句目。

   障碍をや師走の月の天狗共
 紅粉に木の葉の散てまじれる    貞徳

 貞徳自注に、

 「師走紅粉に木の葉天狗といふより合也。」

とある。
 「師走紅」はジャパンナレッジの「日本国語大辞典」に、

 「〔名〕陰暦一二月の寒中に精製した紅。→寒紅。*俳諧・崑山集〔1651〕一二冬「冬山に残る紅葉や師走紅粉〈玄?〉」

とある。
 「木の葉天狗」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 威力のない小さい天狗。こっぱてんぐ。
 「いかに―たち、疾(と)う疾う出でられ候へ」〈謡・鞍馬天狗〉
  2 風に舞い散る木の葉を、空を自在に飛び回る天狗にたとえた語。
 「時雨にも化くるは―かな」〈鷹筑波・四〉」

 江戸中期になると鳥の姿をした独自の妖怪として確立されてゆく。
 ここでは「より合」とあるように、師走に紅粉、天狗に木の葉が付け合いで、言葉の縁で登場させているにすぎない。
 前句の天狗共を天狗風(つむじ風)のことと取り成し、紅葉に普通の木の葉が混ざって吹き上げられている、となる。
 七十七句目。

   紅粉に木の葉の散てまじれる
 もやうよく染し小袖を龍田川    貞徳

 前句を小袖の模様とする。貞徳自注はない。説明の必要もないというところか。
 七十八句目。

   もやうよく染し小袖を龍田川
 りんきいはねど身をなげんとや   貞徳

 「りんき(悋気)」はやきもちのこと。
 貞徳自注に、

 「是は業平の河内通ひの比、有常の娘の身をもなげ用意するかと云様成思やり也。」

とある。
 業平の河内通いは『伊勢物語』二十三段の「筒井筒」でも有名な話で、この筒井筒の女が紀有常の娘とされている。
 業平が河内の女のところに通っているのを、有常の娘は嫉妬もせずに、

 風吹けば沖つ白波たつた山
     夜半にや君がひとり越ゆらむ

きちんと化粧して、とけな気にも業平のことを信じて心配している。
 句の方では嫉妬はしないが身投げはすると展開する。本説もそのまんまでなく、少し変えるというのは分かるが、どこから「身投げ」が出てきたのか。
 おそらく、

 ちはやぶる神代もきかず竜田川
     からくれなゐに水くくるとは
               在原業平

の歌の最後の「水くくるとは」を水でくくり染めにするという元の意味を、水に潜るとした洒落からきたのだと思う。
 この洒落は後に古典落語の「千早振る」にも受け継がれている。

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