2019年8月12日月曜日

 暑さと長時間労働からなかなかこの俳話の更新ができなかったが、昨日からようやく夏休み。少しは書けるかな。
 昨日は南相馬の追悼福興花火を見に行った。今年はゴッチとしてではなくバンドとしてASIAN KUNG-FU GENERATIONで来てくれた。今までになく大勢の人が集まって盛り上がった。
 さて、今年は月遅れ盆と旧盆が重なるということもあり、貞徳翁独吟百韻「哥いづれ」の巻を読んでみようと思う。この巻は小学館の日本古典文学全集32『連歌俳諧集』(金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974)に収録されていて、貞徳自注と暉峻康隆・中村俊定の注がついているので読みやすい。
 この巻の発句は松江重頼編の『犬子集』(寛永 十 年(一六三三) 刊にも選ばれているので、それ以前のものと思われる。
 その発句はこれだ。

 哥いづれ小町をどりや伊勢踊   貞徳

 小町踊りはコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「江戸時代の初・中期ごろ、京都で七夕(たなばた)の日に踊られた娘たちの風流踊(ふりゅうおどり)。七夕踊ともいった。娘たちの年齢は、年代によって一定していないが、7、8歳から17、18歳までの間で、はでな扮装(ふんそう)で身を飾った。たとえば、美々しい中振袖(ちゅうふりそで)の着物を着、左肩に光綾綸子(こうりょうりんず)の幅広の襷(たすき)を掛け、造花を挿した髪頭に緞子(どんす)の鉢巻(はちまき)を巻き、手には締(しめ)太鼓を持ってたたきながら、「二条の馬場に 鶉(うずら)がふける なにとふけるぞ 立寄ってきけば 今年や御上洛(じょうらく) 上様繁昌(はんじょう) 花の都はなお繁昌」などと小歌を歌って、ときには輪になり、ときには行列をして踊り歩いた。
 のちには踊らずただ歌い歩くだけになったというが、掛踊(かけおどり)の性格が濃い。鉢巻に襷という道具だてに古来の巫女(みこ)の名残(なごり)がうかがえるが、多分に遊戯化していた。七夕は盆に接近しており、盆踊りの前哨(ぜんしょう)にもなったが、もとは娘たちの成女戒(せいじょかい)の物忌みの盆釜(ぼんがま)から発して芸能化したものといわれる。[西角井正大]」

とある。
 一方伊勢踊りの方はというと、これもコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「伊勢参宮信仰に伴って近世初頭に流行した風流踊(ふりゅうおどり)。庶民の伊勢参宮流行の歴史は934年(承平4)の記録までさかのぼるが、1614年(慶長19)に大神宮が野上山に飛び移ったという流言がおこって、にわかに伊勢踊が諸国に流行した。この爆発的流行に翌年には禁令も出された。1635年(寛永12)に尾州徳川家から将軍家光の上覧に供した伊勢踊は、裏紅の小袖(こそで)に、金紗(きんしゃ)入りの緋縮緬(ひぢりめん)の縄帯(なわおび)、晒(さらし)の鉢巻姿の、日の丸を描いた銀地扇を持った集団舞踊で、「これはどこの踊 松坂越えて 伊勢踊」などの歌詞が歌われている。1650年(慶安3)にお陰参りが始まるまでが、伊勢の神を国々に宿次(しゅくつぎ)に送る神送りの踊りとしての伊勢踊の流行期であった。現在は伊豆諸島の新島(にいじま)や愛媛県八幡浜(やわたはま)市などに残存している。[西角井正大]」

とある。
 どちらも貞徳の時代に流行したもので、小町・伊勢という王朝時代の歌人の名前がついていることから、小野小町の歌と伊勢の歌が甲乙つけられないように、小町踊りも伊勢踊りも甲乙つけがたいとする。
 「哥いづれ(勝劣あるや)、小町をどりや、伊勢踊や」という意味。
 貞徳自注に

 「伊勢・小町、哥のよみ無勝劣上手なれば、今をどりの名によせ侍る。」

とある。
 脇は、

   哥いづれ小町をどりや伊勢踊
 どこの盆にかをりやるつらゆき  貞徳

 「をりやる」は「居り」に尊敬語の「やる」をつけたもので、「おりゃる」と発音したのであろう。「おじゃる」と同じ。「りゃ」と「じゃ」の交替はスペイン語を思わせる。
 旧暦七月になると小町や伊勢の踊りが現れるのだから、紀貫之もどこかの盆に帰ってきているはずだ。
 貞徳自注に、

 「盆には死なる人かえるといへば、いづくにか勝劣をとふべきものと也。」

とある。
 前句に優劣つけがたいとして小町と伊勢の歌合せに、紀貫之が判者としてこの世に戻ってきている、とする。
 第三。

   どこの盆にかをりやるつらゆき
 空にしられぬ雪ふるは月夜にて   貞徳

 本歌は『連歌俳諧集』の注にある通り、

 さくら散る木の下風は寒からで
     空にしられぬ雪ぞふりける
              紀貫之(拾遺集)

になる。五七五に区切ると「空にしら」「れぬ雪ふるは」となってしまうが、俳諧ならこれも一興と許される。のちになるが、

 海暮れて鴨の声ほのかに白し    芭蕉

の句もある。
 発句・脇と秋の句だったので、ここで月を出すのは必然。散る桜を雪に喩えた元歌を少し変えて、まだ暑さの残る盆の月だけど、その白い光はあたかも雪のようだと、きっと貫之ならそう詠むだろうする。

 衣手はさむくもあらねど月影を
     たまらぬ秋の雪とこそ見れ
              紀貫之(後撰集)

の歌もある。
 貞徳自注に、

 「貫之のうたを以て月の雪にとりなす。一の句二の句の句切にて俳諧になる也。」

とある。

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