旧暦七月は今日で終わり。明日からは中秋になる。もうすぐ名月だ。
ということで「哥いづれ」の巻は今日で終らせよう。
名残裏、九十三句目。
こころざしせし日よりはらめる
文を付る薄のやうになびききて 貞徳
貞徳自注に、
「すすきは胎(はらむ)也。艶書を荻すすきに付るなり。志はこひにこころざす也。」
とある。
薄が孕むというのは『連歌俳諧集』の注に、
「薄の穂をはらんで、まだ表にのび出ないものを、はらみ薄という。」
とある。
あひはらみくるしからぬや荻薄 貞徳
の発句もある。
「艶書」は恋文のことで、平安時代には香を焚き込んだ文を花の枝に刺して渡した。季節の物を用いるので秋には薄が用いられることもあった。
薄は風に靡くことから、上句は薄に恋文を刺して渡したら、薄のようになびいてきた、となる。下句の「こころざしせし日」は恋に落ちた日だと思うが、最後の「はらめる」はそのまんまの意味(その日のうちにやっちゃったということ)なのか、比喩なのか。
九十四句目。
文を付る薄のやうになびききて
鹿もおよばじ妻のかはゆき 貞徳
貞徳自注に、
「しかは妻を思ふ物也。我はそれよりなびききたるつまかはゆきと也。」
とある。
「妻恋う鹿」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、
「交尾期に牝鹿を呼ぶためにピーッと高く長く強い声で鳴く牡鹿」
とある。男が女を恋う。
さを鹿やいかがいひけむ秋萩の
にほふ時しも妻をこふらむ
紀貫之(古今和歌六帖)
ほか多くの和歌に詠まれている。
その妻恋う鹿も及ばないほど、文を付る薄のやうになびいてきた妻が「かはゆき」となる。
「かはゆし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①恥ずかしい。気まり悪い。
出典右京大夫集
「いたく思ふままのことかはゆくおぼえて」
[訳] あまりに自分の思っているままのことでは恥ずかしく思われて。
②見るにしのびない。かわいそうで見ていられない。
出典徒然草 一七五
「年老い袈裟(けさ)掛けたる法師の、…よろめきたる、いとかはゆし」
[訳] 年をとり、袈裟を掛けた法師が、…よろめいているのは、たいそう見るにしのびない。
③かわいらしい。愛らしい。いとしい。
◆「かほ(顔)は(映)ゆし」の変化した語。
語の歴史:室町時代から③の意味でも用いられるようになり、形は「かはいい」に変わり、現代語「かわいい」につながる。」
とある。
今や世界の言葉となった「かわいい」は、顔が真っ赤になる「顔映ゆ」が語源だと言われている。そこから①はそのまま恥ずかしいという意味で、②は「かたはらいたし」と同様に傍で見ていて恥ずかしくなるというところから「見るにしのびない。かわいそうで見ていられない。」になる。
それが③の意味になるにはやや飛躍があるが、恋するときにはやはり顔が赤くなるし、その赤らんだ顔に惹かれる、というのが室町時代から生じた意味で、それが後に拡大されて、自分を求めているものを守ってあげたいというところから、子供や小動物にも拡大され、保護欲求を掻き立てるものに使うようになっていったのではないかと思う。
貞徳のこの句ではまだそこまで拡大されず、薄のようになびく妻が「かはゆき」としている。
九十五句目。
鹿もおよばじ妻のかはゆき
漸寒き比はとらする木綿たび 貞徳
前句の「かはゆき」を可哀相という古い意味に取り成して、寒い頃は木綿の足袋をとらせてやる。裸足では辛いだろう。
この句には自注はない。
九十六句目。
漸寒き比はとらする木綿たび
あかがりあればつかはれぞせぬ 貞徳
「あかがり(皹・皸)」はあかぎれのこと。
貞徳自注に、
「あかがりは足にきるる物なれば、たびをとらするなり。」
とある。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「[1] 〘名〙 あかぎれ。《季・冬》
※神楽歌(9C後)早歌「〈本〉安加加利(アカカリ)踏むな後(しり)なる子」
※平家(13C前)八「夏も冬も手足におほきなるあかがりひまなくわれければ」
[2] 狂言。各流。主が、太郎冠者に自分を背負って川を渡るように命じるが、冠者はあかぎれを理由に断わるので、主は、逆に冠者を背負って渡り、川の中で振り落とす。
[語誌]アカガリのアは足で、カカリは動詞「カカル」の連用形名詞。「カカル」は、ひびがきれる意の上代語。
とあるように、本来は足にできるものだった。手のあかぎれは別の呼び方ががったか。
「つかはれぞせぬ」は今日でいう「つかえねー」ということか。みんなあかぎれでは仕事にならないから、足袋を支給する。
九十七句目。
あかがりあればつかはれぞせぬ
稲茎は鷹場にわるき花の春 貞徳
貞徳自注に、
「いなくきは赤きもの也。あかがりを刈てに取なす也。鷹をつかふといへば也。」
とある。
「稲茎」は稲株と同じ。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「稲を刈ったあとに残る切り株。稲茎。いねかぶ。」
とある。この稲株が赤いので、これを赤刈りと呼んだか。
桜の咲く頃はまだ苗代の頃で、田んぼには去年の稲株が残ってたりする。鷹狩りは田んぼで行うことも多かったようで、田んぼに来る鳥を狙うのだが、稲株があると邪魔になるのだろう。
九十八句目。
稲茎は鷹場にわるき花の春
雪間をしのぐ辺土さぶらひ 貞徳
花の春といってもここは雪の花。辺土というのは陸奥か北陸か。ここでも鷹狩りが行われている。
この句に自注はない。
九十九句目。
雪間をしのぐ辺土さぶらひ
百姓と富士ぜんぢやうに打交 貞徳
貞徳自注に、
「ふじの雪にとりなすなり。」
とある。
「富士禅定」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 富士山・白山・立山などの高山に登って修行し、所願成就を祈ること。《季・夏》 〔経覚私要鈔‐康正三年(1457)七月二三日〕
② 富士山頂の浅間神社に登山参詣の行者と称して物ごいをする乞食(こじき)。
※浄瑠璃・凱陣八島(1685頃)一「するが二郎はふじぜんぢゃう、ひたちばうはこもぞう」
とある。
ただ、「花の春」「雪間」と来てもう一句春の句にならなくてはならないのに、「富士禅定」だと夏になってしまう。もっとも、『応安新式』には「春秋恋(已上五句)」とあるだけだから、式目上は違反しない。
挙句。
百姓と富士ぜんぢやうに打交
をがまれたまふ弥陀の三尊 貞徳
貞徳自注に、
「彼山にて三尊を現にをがむといひならはせり。仏の人間にまじはり給ふと云心也。」
とある。
「富士吉田観光ガイド」というサイトの西念寺のところに、
「西念寺は、養老3年(719)、行基が富士山で修行したおりに山頂に阿弥陀三尊が来迎したことから、この地にお堂を作り阿弥陀三尊を安置したのが草創という。その後、永仁6年(1298)、一遍の弟子時宗の他阿真教(たあんしんきょう)上人が、時宗道場を開基したという。富士道場とも称している。本堂と大門との間には清光院・観音院があり、本堂裏には大塔中と呼ばれる塔頭(たっちゅう)があった。開創の由来からも見られるように、西念寺と富士山信仰との関係は深く、江戸時代、富士講の人達は西念寺が定めた「西念寺精進場」で身を清めた後、富士に登拝したといわれています」
とある。富士禅定は山頂に登って阿弥陀三尊の来迎を拝むためのものだった。
挙句が釈教になるのは珍しいが、とにかくお目出度く終わる。
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