今日は終戦記念日。ともあれ平和で何よりだ。
日本と韓国は名もなき人達が絶えず交流を繰返し、こうして地道に作り上げ獲得した平和は、いくら政治家や一部の団体が煽った所でそう簡単に壊れるものではない。煽ってる方こそ時代から取り残された哀れなやつらだ。
わからないのかい。帝国主義の時代なんてとっくに終っていることを。
それでは「哥いづれ」の巻の続き。
十五句目。
枝なき椎のなりのあはれさ
しばらるる大内山の月のもと 貞徳
大内山はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「①京都市仁和(にんな)寺の北にある山。宇多天皇の離宮が置かれた所。
②皇居のこと。」
とある。
貞徳自注には、
「しばられたる者肢なきやうなり。椎は頼政がすがりて付る也。」
とある。頼政は、
二条院の御時、年ごろ大内守ることを
うけたまはりて御垣の内に侍りながら、
昇殿を許されざりければ、行幸ありけ
る夜、月のあかかりけるに、女房のも
とに申し侍りけるに
人知れぬ大内山の山守は
木がくれてのみ月を見るかな
源頼政(千載集)
の歌を詠むことで昇殿を許されたが、さらに三位の位を欲して、
のぼるべきたよりなき身は木のもとに
しゐをひろひて世をわたるかな
源頼政
と詠んで昇進したという。
「椎」と「大内山の月」の縁はこれで分かるが、別に頼政が大内山に縛られていたわけではない。あくまで比喩として、昇殿を許されないのを低い身分に縛り付けられていたという意味でしかない。それを椎の実を拾うのではなく、枝もない椎の木のような姿だとする。
十六句目。
しばらるる大内山の月のもと
御室の僧や鹿ねらふらむ 貞徳
ここでは大内山は「京都市仁和(にんな)寺の北にある山」の方の意味になる。大内山は御室(おむろ)山ともいい、御室の僧は仁和寺の僧をいう。
貞徳自注には、
「大内山仁和寺にあり。乱行ゆゑしばらるる也。」
とある。鹿を弓矢で射止めようとしたのだろう。僧である以上、殺生は慎まねばならない。
十七句目。
御室の僧や鹿ねらふらむ
恒政は十六のころさかりにて 貞徳
貞徳自注には、
「但馬守御室そだち也。四々十六と云こころ也。」
とある。
恒政は平経正のことで、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「[生]?
[没]寿永3=元暦1(1184).2.7. 摂津,一ノ谷
平安時代末期の武将。但馬守正四位下。父は清盛の弟,参議経盛。弟には敦盛がいる。和歌,琵琶に秀でた。若年で仁和寺宮守覚法親王に師事し,親王の秘蔵の琵琶「青山」を賜わった。寿永2 (1183) 年平家一門の都落ちに際しては,名器「青山」が戦乱で喪失するのをおそれ,仁和寺宮を訪れて返却し,別れに数曲を弾いたところ,聞く者の涙を誘ったという。翌年一ノ谷の戦いに敗れ割腹した。」
とある。
十七歳のときに宇佐八幡で青山を弾いた話があるところから、仁和寺で青山を賜ったのが十六くらいだったのだろう。
和歌や琵琶の風流でも知られたが、数え十六といえばやんちゃ盛りの頃なので、鹿を射止めようとしたこともあっただろう。
十八句目。
恒政は十六のころさかりにて
うつぶるひ引琵琶もなつかし 貞徳
貞徳自注に、
「十六島と書てうつぶるひとよむげに候。付にくき故。」
とある。
十六島はウィキペディアに、
「十六島(うっぷるい)は島根県出雲市の地名。旧平田市。十六島海苔(岩海苔の一種)で有名。出雲市十六町の海岸に突出した岬で、大岩石や奇岩が林立し、山陰でも屈指の海岸美を呈している。」
とある。
経正といえば琵琶青山だが、談林の頃の俳諧なら経正に琵琶という付け合いだけで十分だったのではないかと思う。貞徳の頃は、それでは十分付いてないということで、十六島(うつふるい)と「打ち振るい」を掛けて、より緊密に付ける必要があったのだろう。
十九句目。
うつぶるひ引琵琶もなつかし
急雨にあふたやうなる袖の露 貞徳
「急雨」は「むらさめ」と読む。袖の露は涙の比喩で、打ち振るい弾く琵琶が悲しくて涙する。昔の恋を思い出したのであろう。
この句には貞徳自注がない。後の欠落だろうか。それとも説明の必要もないということか。
二十句目。
急雨にあふたやうなる袖の露
ともに見もどすまきの下道 貞徳
村雨に槇といえば、
村雨の露もまたひぬ真木の葉に
霧立ちのぼる秋の夕暮
寂蓮法師(新古今集)
の歌が有名だ。
村雨の露はここでは涙の比喩ではなく、実際の雨になる。「あふたやうなる」は「逢うたやうなる」に取り成される。
雨のせいで互いの顔もよくわからないなか、山道ですれちがう二人は知ってる人に「逢ふたやう」に思ったのだろう。ともにどちらからともなく振り向く。離れ離れになっていた恋人の邂逅であろう。新海誠監督に描いて欲しいところだ。
貞徳自注に、
「もと逢見るやうに覚ゆる人なれば見かへる也。」
とある。
二十一句目。
ともに見もどすまきの下道
花かづら根もとをしつた人もなし 貞徳
「花かづら」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」の解説に、
「1 時節の花を糸で連ねて作った挿頭(かざし)。
「漢人(からひと)も筏(いかだ)浮かべて遊ぶといふ今日そ我が背子―せな」〈万・四一五三〉
2 山上に咲きそろった花を1に見立てた語。
「雲のゐる遠山姫の―霞をかけて吹く嵐かな」〈夫木・四〉」
とある。正花としての「花かづら」はこの花で作った挿頭のことで、貞徳
著の『俳諧御傘』に「花かづら 春也。植物也。正花也。」とある。
『俳諧御傘』の「花籠」に、「正花也。」とあり、「それにも時々の草木の花をもいるる故に、籠の名なれ共春にも植物にも用る也。」とあるように、必ずしも桜を用いた挿頭でなくても、花籠同様に扱われていた。
貞徳自注には、
「槇を巻の字にとりなす。かづらの末より根を見もどす心なり。」
とある。
花かづらは花と茎を切り取ったもので、根がどこにあったかを知る人はいない。ともに蔓の巻いてからまった道をふりかえる、となる。
二十二句目。
花かづら根もとをしつた人もなし
売かしとぢた門の藤なみ 貞徳
貞徳自注に、
「根もとを代もとにとりなす也。此藤の花をうらばかはんと也。」とある。
前句の「花かづら」を藤のこととし、その元値を知る人はいない。売って欲しいと思うのだけど、門は閉ざされている。
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