2019年8月3日土曜日

 「表現の不自由展」のコンセプト自体は悪くないと思う。けどちょっとマニアックすぎたな。
 トリエンナーレはもっと市民の誰もが楽しめるようなものであって欲しいね。お祭なんだから。まだ「モルゲッソヨ(총알맨)」でも展示した方がよかったと思う。
 政治性を抜きにしても、見れば感動できるような美しい作品ならいいんだけど、あれだけはちょっとね。
 第一回の横浜トリエンナーレに行った時は本当に感動した。世界にはこんなおもしれーこと考える奴らがいるんだと思った。ただ二回目は急にしょぼくなり、前回は結局行かなかった。

 「一、次でながら難ズ。
 亡師五七日追善、木曾塚ニて、嵐雪・桃隣など集たるれきれきの百韻の

巻に、
 青き中よりちぎる南蛮     乙州
 松の葉のちらちら落る月の影  朴吹
 たしかに鹿の鳴声を聞     丹野
 のびかがミ我身を楽にとり廻し 路通
 付ちらかして買ぬ小道具    臥高
 傘をさげてもどりし雲の峯   土龍
 乙州が『青き南蛮』といへるハ何ぞや。南蛮といへる物しらず。黍の事か、唐がらしの事か。平話にハいふといへ共、文章ニつらねる時、一句南蛮と斗いへるものなし。
 惣体ニて、唐がらしと成共、又ハ玉黍と成共、きこえ侍る句作ならバ、南蛮共下畧尤たるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.148~149)

 この巻は路通の『芭蕉翁行状記』に収められている。

   翁二七日十月廿五日會
   追善各集粟津義仲寺譜直愚上人設斎
 木がらしや通ふして拾ふ塚の塵 路通

を発句とする四十四句俳諧があり、初月忌には乙州・木節の両吟歌仙があり、そのあとの五七日木曽塚會連衆、京、江戸、大津、膳所の四十八句の四句目から九句目がここに記されている。

 青き中よりちぎる南蛮     乙州

 この句の「南蛮」が問題になる。
 ちなみに今日のウィキペディアの「唐辛子」の所には、

 「『唐辛子』の漢字は、『唐から伝わった辛子』の意味であるが、歴史的に、この『唐』は漠然と『外国』を指す語とされる(実際の伝来経路については伝来史で)。同様に南蛮辛子(なんばんがらし)、それを略した南蛮という呼び方もある。」

とある。
 特に南蛮味噌の南蛮は青唐辛子のことで、乙州の句を証明するかのよう

だ。
 また、ウィキペディアの「南蛮」の所には、

 「『南蛮』の語は、今日の日本語においても長ネギや唐辛子を使った料理にその名をとどめている。『南蛮料理』という表現は、16世紀にポルトガル人が鉄砲とともに種子島にやってきた頃から、様々な料理関係の書物や料亭のメニューに現れていた。それらに描かれる料理の意味は、キリスト教宣教師らにより南蛮の国ポルトガルから伝わった料理としての南蛮料理と、後世にオランダの影響を受けた紅毛料理や、中華料理の影響、さらにはヨーロッパ人が船でたどったマカオやマラッカやインドの料理の影響までを含む、幅広い西洋料理の意味で使われてきた場合の両方がある。
 南蛮料理が現れる最も古い記録には、17世紀後期のものとみられる『南蛮料理書』がある。また主に長崎に伝わるしっぽくと呼ばれる卓上で食べる家庭での接客料理にも南蛮料理は取り込まれていった。
 唐辛子は別名を『南蛮辛子』という。南蛮煮は肉や魚をネギや唐辛子と煮た料理である。南蛮漬けはマリネやエスカベッシュが原型と考えられている。カレー南蛮には唐辛子の入ったカレー粉とネギが使用されている。文政13年(1830年)に出版された古今の文献を引用して江戸の風俗習慣を考証した『嬉遊笑覧』には鴨南蛮が取り上げられており、『又葱(ねぎ)を入るゝを南蛮と云ひ、鴨を加へてかもなんばんと呼ぶ。昔より異風なるものを南蛮と云ふによれり』と記されている。」

とある。
 唐辛子を南蛮と呼び、唐辛子を使った料理も南蛮と呼ばれていたことからすれば、たまたま許六が唐辛子を南蛮というのを知らなかっただけかもしれない。
 許六が唐辛子か黍かわからないと言っているのは、確かにトウモロコシのことを南蛮黍と言っていたからだ。ただこっちの方は南蛮と略されてはいなかったのだろう。

 「青き中よりからき南蛮
 などあらバ、唐がらしの句ともいふべし。此句、秋なるや、夏なるや、慥ならず。青唐がらしならバ、夏たるべし。黍にても、青きとせば夏ニ成べし。青麦、春に成上ハ、是慥成夏也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.149)

 青唐辛子(青蕃椒)は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』でも夏のところにある。

 青くても有るべきものを唐辛子  芭蕉

の句は元禄五年九月の句。赤くなった唐辛子を見て、青くてもよかったのにという句だから秋の句になる。

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