2019年8月25日日曜日

 世界が平和になったのは市場経済のクローバル化だけが原因ではない。生物学的な意味での生存競争が地球レベルで進行する少子化によって和らいだのも一因だ。
 生存競争というのは、自然生態系の与える資源が一定なのに対し、子は鼠算式に増えてゆくところから生じる。有限な地球に無限の生物は生きられない。結局それは仲間同士の激しい縄張り争いとなり、自然に調整されることになる。
 近代以前の社会では、生産性を飛躍的に高めるような発明は滅多に起きず、概ね生産力は一定だった。そこで沢山の子供が生まれてくると、農地を相続できるのも、そこに妻として納まることができるものも限られていた。あぶれた次男三男以下は、都市が形成される前は結局戦争をやって殺しあうしかなかった。そしてあぶれた女性は口減らしされるか生贄に奉げられるか遊女になるしかなかった。
 男は兵隊になり、女は娼婦になる。それは前近代社会の日常だった。
 近代化によって急速に生産性が向上したが、マルサスはそれすら人口増加によって食い尽くされてしまうだろうと予言した。しかしこの予言は外れた。同時に少子化が起こったからだ。
 少子化は近代化の過程でどこの国でも例外なく起こっている。これは自然現象といっていい。過密に対する生物学的反応ではないかと思う。
 少子化のおかげでわれわれは限られた資源をめぐる熾烈な生存競争から解放された。目先の利益で安易に少子化対策なんてことを言ってほしくない。子供を三人生めと言うが、本当にみんなが子供を三人生んだら、一人は戦争で死ぬか娼婦になる。それが天だ。
 江戸時代も急速に都市化が進んだ時代だった。都市化によってあぶれた人口は商工業や大衆芸術を生み、風流の心が生存競争の過熱を防ぎ、子孫を残すこと以外の価値を大衆に植え付けていった。
 その発端になったのが貞徳の貞門俳諧だった。
 そういうわけでその輝ける「哥いづれ」の巻の続きを。

 三裏、六十五句目。

   内親王とちぎるいく秋
 待て居るしるしの杉も長月や    貞徳

 貞徳自注には、

 「斎宮は斎王とも云て、いづれも女王也。是は六条御息所の源氏とはうくて、御娘と親子のちぎりふかきと恨み給ふ心なり。」

とある。
 斎宮はウィキペディアに、

 「斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は、古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。」

とある。本来斎宮は伊勢の斎王の御所のことだったが、斎王のことも斎宮と呼んだ。
 ウィキペディアの斎王の項に、

 「斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)。厳密には内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は「斎女王」といったが、両者を総称して「斎王」と呼んでいる。」

とあるように、前句の内親王を斎王のことと取り成すことが出来る。
 『源氏物語』では六条御息所の娘が内親王であり、斎宮(伊勢の斎王)となる。
 賢木巻で六条御息所が娘の斎宮に付き従って伊勢に下る前、斎宮が伊勢下向前の一年間を過ごす野宮(ののみや)に籠っている御息所をひそかに訪ねる時に、

 「月ごろのつもりを、つきづきしう聞え給はんも、まばゆきほどに成りにければ、さかきをいささかをりても給へりけるを、さし入れて、かはらぬ色をしるべにてこそ、いがきもこえ侍りにけれ。さも心うくときこえ給へば、

 神がきはしるしのすぎもなきものを
  いかにまがへてをれるさかきぞ

ときこえ給へば、

 をとめこがあたりとおもへばさか木葉の
  かをなつかしみとめてこそをれ

おほかたのけはひわづらはしけれど、みすばかりはひききて、なげしにおしかかりてゐ給へり。」

という歌のやり取りをする。現代語にすると、

 「日頃積もり積もった思いをそれっぽく伝えようにも、この神聖な場にそぐわない状態なので、榊の枝を少々折って携えていたの差し入れ、
 『変わらないという証拠があるからこそ、忌垣の内側にも入れるのですよ。
 それなのに、つれないですね。』
と言うと、

 『稲荷社のしるしの杉とまちがえて
     この野の宮の榊折るとは』

という歌を詠むのを聞こえたので、源氏の君も歌を返しました。

 『神聖な処女はここかと榊葉の
     香りを慕い折ったまでです』

 あたりの雰囲気にはそぐわないものの、御簾だけを隔てたまま、源氏の大将は簀子(すのこ)と廂(ひさし)を隔てる長押(なげし)に寄りかかって座ってました。」

といったところか。
 「しるしの杉」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「伏見の稲荷神社にある神木の杉。参詣者がその枝を折って帰り、久しく枯れなければ願いが成就するとされた。」

とある。源氏の君が榊の枝を折って神聖な野宮に入ろうとするのを見て、ここは伏見稲荷ではありませんよとたしなめるわけだが、そこは御息所も心の中では源氏の君が来るのを待っていたのか、そのあと、

 おもほしのこすことなき御なからひに、きこえかはし給ふことども、まねびやらんかたなし。
 (いろいろなことがありすぎた二人の間にこのあと一体何があったのか、それはここで再現するわけにはいきません。)

という展開になる。
 その御息所の気持ちを源氏の君が「待て居るしるしの杉も長月や」と問いかける句にして、前句の「内親王とちぎる」に付ける。ただ正確には内親王の母とちぎる、だが。
 「居る」は「折る」、「長い」と「長月」が掛詞になる。手の込んだ付け方で、これぞ貞門の真髄ともいえよう。
 六十六句目。

   待て居るしるしの杉も長月や
 折を出せかし此菊のやど       貞徳

 貞徳自注には、

 「杉折と取りなすなり。」

とある。「杉折」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 杉材の薄い板(へぎ板)で作った四角の小箱。菓子、料理などを入れるのに用いた。折箱(おりばこ)。
  ※俳諧・誹諧独吟集(1666)下「ひえ坂来るは京衆なるらし 提重(さげぢゅう)に峯の杉折持添て」

とある。
 「菊の宿」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「菊の花の咲いている家。《季・秋》
  ※俳諧・崑山集(1651)一一「酒の朋遠方よりやきくの宿〈貞徳〉」

とある。
 長月九日は重陽で杉折の箱に入った料理を今か今かと待っている。
 六十七句目。

   折を出せかし此菊のやど
 見るもただ大盃はくるしきに     貞徳

 貞徳自注には、

 「当世おりべ盃とてあり。一と略の詞、これを近来の事ながら天下通用にしていふより取用ゆ。是俳諧の徳也。さりながらちかき事は大方せぬ事也。能分別すべし。」

とある。
 「織部盃」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「非常に浅くて開いた形の杯。古田織部の創製という織部焼の杯。おりべ。」

とある。
 重陽には菊花酒を飲む習慣があり、

   九月九日、乙州が一樽をたずさへ来たりけるに
 草の戸や日暮れてくれし菊の酒    芭蕉

という元禄四年の句もある。
 ただ大盃で出されると、大酒飲みには嬉しいが、酒に弱い人には苦しい。せめて織部盃にしてくれ、というわけだ。
 菊花酒はウィキペディアによれば、

 「江戸時代の『本朝食鑑』には二種類の製造法が紹介されている。
 一つ目は、菊の花びらを浸した水で仕込みをすると言うもので、有名な加賀の菊酒はこの製法で作る。
 二つ目は、「菊花を用いて、焼酎中に浸し、数日を経て煎沸し、甕中に収め貯え、氷糖を入れ数日にし成る。肥後侯之を四方に錢る 倶に謂ふ目を明にし頭病を癒し 風及婦人の血風を法ると」『本朝食鑑』とあり、現在梅酒などを造る時の要領で、氷砂糖と一緒に寝かせた菊の花びらを焼酎に漬け込むもの。眼病や婦人病に効果があると、江戸時代に広く薬酒として愛された。
 そのほか、原料となる米に菊の花の香りを移すものなど、諸説ある。」

とあり、どれが一番一般的だったかはよくわからないが、芭蕉が飲んだのは樽でいただいたものだから、菊の花びらを浸した水で仕込んだ方のものか。
 六十八句目。

   見るもただ大盃はくるしきに
 かつやうにせん弓の射こくら     貞徳

 貞徳自注には、

 「是はから国に、弓にまけたるものには大さかづきにて酒のまする事あり。」

とある。
 『連歌俳諧集』の注はこれを投壺のこととしている。投壺はウィキペディアに、

 「投壺(とうこ)は、中国の宴会の余興用のゲームである。壺(通常は金属製)に向かって矢(実際には木の棒)を投げ入れるゲームで、原理的には輪投げやダーツに近い。
 非常に古い伝統のあるゲームであり、本来は負けた側が罰杯を飲まなければならないものであった。
 現在は主に大韓民国で行われている。」

とある。確かにネットで見たら韓国伝統玩具としてトゥホ(投壺)セットというのが売ってた。矢の先はゴムになっている。
 ただ、日本では古代にはあったけど廃れてしまった遊びなので、矢を投げるのではなく弓を使うと勘違いしていたのか、「弓の射こくら」になっている。それとも弓を使う別の遊びがあったのか。
 六十九句目。

   かつやうにせん弓の射こくら
 うしろよりまゐりて拝む堂の前    貞徳

 貞徳自注には、

 「三十三間の堂の体なり。ほとけへの祈念の体なり。」

とある。
 京都の蓮華王院の三十三間堂は121メートルの長さで古くから通し矢が行われていた。
 ウィキペディアによれば、

 「保元の乱の頃(1156年頃)に熊野の蕪坂源太という者が三十三間堂の軒下を根矢(実戦用の矢)で射通したのに始まるともいわれるが、伝説の域を出ない。実際には天正年間頃から流行したとされ、それを裏付けるように文禄4年(1595年)には豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出している。なお秀次自身も弓術を好み、通し矢を試みたともいう。この頃はまだ射通した矢数を競ってはいなかったようである。
 通し矢の記録を記した『年代矢数帳』(慶安4年〈1651年〉序刊)に明確な記録が残るのは慶長11年(1606年)の朝岡平兵衛が最初である。平兵衛は清洲藩主松平忠吉の家臣で日置流竹林派の石堂竹林坊如成の弟子であり、この年の1月19日、京都三十三間堂で100本中51本を射通し天下一の名を博した。以後射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称した。多くの射手が記録に挑んだが、実施には多額の費用(千両という。)が掛かったため藩の援助が必須だった。
 寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎討ちの様相を呈し、次々に記録が更新された。寛文9年(1669年)5月2日には尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数10,542本中通し矢8,000本で天下一となった。貞享3年(1686年)4月27日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となった。これが現在までの最高記録である。その後大矢数に挑む者は徐々に減少し、18世紀中期以降はほとんど行われなくなった。ただし千射種目等は幕末まで行われている。」

 「保元の乱の頃」というのが伝説だというのは、当時の弓の性能では困難で、『奥の細道─道祖神の旅─』を書いた時に那須与一のことで調べた時には、この頃、それまでの梓や檀の木でできた弓(梓弓、真弓)竹で補強したあわせ弓が登場し、それまでの弓の射程が十五メートルくらいだったところを、那須与一は六十メートルの遠射を行ったという話だったが、三十三間堂はその倍もある。
 戦国末期には射程が更に伸び、それによって三十三間堂の射通しを試みる人が現れ、江戸時代初期には藩対抗の競技会の様相を呈するようになった。貞徳の時代はまさにその華やかなる時代だった。
 通し矢は三十三間堂の千体の千手観音の背中側、つまり西側で行われていた。(三十三間堂の千手観音は千一体で一体だけ反対側にある。)それを「うしろよりまゐりて」としたか。
 七十句目。

   うしろよりまゐりて拝む堂の前
 主に先だち腹やきるらむ       貞徳

 貞徳自注には、

 「主君のうしろより先いづるよしなり。」

とある。
 普通は主君が切腹すると臣下の者がその後を追うのではないかと思う。主君より先に切腹するというのはどういうことか。まあ、それが後ろから堂を拝むようなもの、ということか。
 七十一句目。

   主に先だち腹やきるらむ
 鎌倉の海道遠きさめがゐに      貞徳

 貞徳自注には、

 「太平記にあり。北条殿よりも六波羅の没落は先なり。」

とある。
 醒井(さめがい)は米原と関が原の間にある中山道の宿場。
 北条殿はここでは北条仲時のことで、ウィキペディアによれば、

 「元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(滋賀県米原市)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した。享年28。」

とある。
 七十二句目。

   鎌倉の海道遠きさめがゐに
 おとす尺八何としてまし       貞徳

 貞徳自注には、

 「尺八の手に海道下りと云事あり。又醒井にて西行おとしごと云事あり。」

とある。
 「旧街道ウォーキング 人力」のサイトによると、醒ヶ井宿には泡子塚というのがあり、

 「西行法師東遊でこの泉で休憩したところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと、不思議にも懐妊し、男子を出産した。その後関東からの帰途でまたこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、

 水上は清き流れの醒井に
     浮世の垢をすすぎてやみん

と詠むと、児はたちまち消えて、もとの泡になったという伝説が残っている。」

という。これが「西行おとしご」であろう。
 ただここでは西行に隠し子があったとかそういう話にはせずに、「おとす」を「音す」に掛けて、「海道下り」を一節切(ひとよぎり)尺八の曲に掛けている。
 一節切(ひとよぎり)は尺八よりも古くからあり尺八の前身と言われている。「海道下り」は後に一節切唱歌になり、寛文四年(一六六四)の『糸竹初心集』に収められている。

   海道くだり
 おもおしいいろの、かいどくたりやああ、なにとかたあるとつうきいせじ、かもがあはあしらかは、ううちわあたり、いい、おもふひとにはあああはたぐちとよをを、しのみやあがはあらやあ、じうぜえんじせきやあまあさんりを、ううちすうぎてええ、ひとまづうもををとにい、つうくうとの
 これより末、尺八吹きやう同前なり

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