日本人もかつて軍部の支配のなかで悲惨な戦争へと駆り立てられ、それに民衆レベルでこれといってきわだった抵抗運動も出来ないまま、最終的にポツダム宣言の受諾により、連合軍の圧力によって軍国主義は終わり国民主権の時代が来た。
日本人にとって国民主権は自ら勝ち取ったものではなく、あくまで戦後処理として与えられたものだった。この無力感をごまかすために戦後の左翼は「八月革命」という幻想を抱き、現行憲法の正当性の根拠としてきた。
ありもしない八月革命によって獲得した日本国憲法は、明治憲法同様不磨の大典とされ、憲法九条はあたかもかつての天皇の地位に取って代わるかのように神聖にして犯すべからざるものとされてきた。
お隣の国も、連合国による天から降ってきたような独立だったことで、色々な幻想が生じているのだろうか。戦うこともなく達成した独立によって、結局未だにそれを埋め合わせるかのように日本と戦おうとしている。この独り相撲、不幸な結果にならないことだけを祈る。
鈴呂屋は基本的にすべての国が平和で豊かで自由な国になる事を望んでいる。
八月革命の幻想も日本ではほんの一部の人のものにすぎない。韓国でもそれは同じだと思う。一部の暴走で迷惑しているのはどちらも同じだ。
それでは「哥いづれ」の巻の続き。
三表、五十一句目。
くらきにいるる物の本蔵
奥どのを奥でものしりものにして 貞徳
「奥どの」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 奥のほうにある建物。また、特に酒屋の奥蔵をいう。よい酒が秘蔵されているところ。また、その酒。
※御伽草子・酒茶論(古典文庫所収)(室町末)「さすがをくどののふるさけのかたぞこひしき」
② 冷やかしの気持をこめて、奥さんの意にいう。
※火の柱(1904)〈木下尚江〉四「奥殿(オクドノ)の風雲転(うたた)急なる時」
②の意味は今日でも奥様、奥方などという言葉に残っているが、貞徳自注に、
「奥といふは房坊の女のかくし名なり。」
とあり、元はお寺の奥の部屋で囲われている女のようだった。
「ものしり」も今日でいう「物知り」の意味ではあるまい。本蔵で物知りになるということと掛けてはいるものの、別の意味もあったと思われる。
「ものをして」も今日の「ものにする」に近い意味か。『連歌俳諧集』の注には、「房事を行ったの意」とある。
まあ性交に関することは昔も今も様々な遠まわしな言い方があるが、これもその類か。
前句の「物の本蔵」に「ものしりものをして」と「もの」が連続するが、同字同音は打越は嫌うが付け句では問題ない。特に上句下句通して調子のよいリズムを生み出すためなら、十分理由がある。和歌でも、
よき人のよしとよく見てよしと言ひし
吉野よく見よよき人よく見つ
天武天皇
の例がある。
五十二句目。
奥どのを奥でものしりものにして
よき酒にてや児をたらせる 貞徳
「奥どの」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の①に、
「奥のほうにある建物。また、特に酒屋の奥蔵をいう。よい酒が秘蔵されているところ。また、その酒。」
とあったように、良い酒が置いてある。これを使って稚児を「たらす」。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、
「うまいことを言って人をあざむく。だます。」
とある。今日でも「女たらし」という言葉が残っている。
貞徳自注に、
「酒屋のおくどのとてよきさけあり。」
とある。
五十三句目。
よき酒にてや児をたらせる
鬼なれどしたがへられて大江山 貞徳
前句の稚児を大江山の酒呑童子とする。酒呑童子には茨木童子をはじめとして何人もの鬼の配下がいた。酒が好きなことで配下の鬼から酒呑童子と呼ばれていた。
貞徳自注に、
「酒典童子と申古事(ふること)。」
とある。
五十四句目。
鬼なれどしたがへられて大江山
治りかへる御代は一条 貞徳
酒呑童子の物語は一条天皇の時代に設定されている。
ウィキペディアに、
「一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。」
とあるように、平和で文学の栄えた時代だった。
貞徳自注に、
「一条院の御宇とかや。」
とある。
前句に「鬼」「大江山」という単語があるが、鬼退治の趣向から離れなくてはならない苦しいところで、他の出典に遁れることもできない。そのため単に一条天皇の時代のことだったと軽く流す。
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