「哥いづれ」の巻の続き。
三十一句目。
あるる鼠をにくむ幸わか
浅間しし朝倉殿の乱の前 貞徳
ウィキペディアによれば、
「幸若舞曲を創始したのは、源義家から10代後の桃井播磨守直常の孫(あるいはひ孫 )の桃井直詮で、幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が付いたとされる。」
だという。
そしてさらに、
「幸若丸は、やがて足利将軍義政の知遇を得、生国の越前国丹生郡に知行を賜って、生地である法泉寺村に住んでいた。
こうして桃井幸若丸が、幸若という一座を開き、『幸若家』を起こしたものが、越前幸若流、あるいは幸若の正統などと呼ばれる。」
とある。
そしてウィキペディアの「幸若遺跡庭園」の項によれば、
「直詮の子孫は、越前国丹生郡西田中(現在の福井県丹生郡越前町西田中)に住み、越前国朝倉氏の庇護を受け、織田信長や豊臣秀吉からも知行を与えられ、江戸時代には徳川家の保護を受けていた。」
だという。
ここに幸若舞と朝倉氏のつながりがある。
「乱の前」というのは朝倉氏と浅井氏がともに織田信長に反旗を翻して戦った「姉川の戦い」などを指すものであろう。
このときはまだ貞徳は生まれてなかったが、後に秀吉に仕えた時、朝倉義景の名はいろいろな形で聞かされたことだろう。
幸若家のほうはその後も信長・秀吉・家康によって保護され幕末まで続いたという。
この句にも貞徳の自注はない。十句目と同様、貞徳が秀吉に仕えていた過去に関わる句だからだろうか。
三十二句目。
浅間しし朝倉殿の乱の前
木のまるはぎにはく藤袴 貞徳
これは新古今集の、
題しらず
朝倉や木の丸殿に我がをれば
名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
天智天皇
による付け。前句の「朝倉殿」を古代の筑前朝倉の木の丸殿(まろどの)に取り成す。
斉明天皇の木の丸殿がその後どうなったのかはよくわからないが、荒れ果てる前は木の皮を丸剥ぎにした丸太で作られた簡素な殿舎に、藤袴が植えられていたことだろう、と付ける。
藤袴は香料として用いられたので、高貴な女性の匂いでもある。
貞徳自注には、
「天智天皇の御製の詞をかるなり。」
とのみある。
三十三句目。
木のまるはぎにはく藤袴
秋山のしばにんにくの実の匂い 貞徳
前句の木を秋山の柴の草庵のこととし、丸剥ぎをにんにくの実のこととする。
肉食をほとんどしない昔の日本人にとって、にんにくは食用というよりは薬用だった。旧暦六月頃が収穫期で、江戸後期の曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では夏の季語になっているが、貞徳の『俳諧御傘』には見られないので、この時代は無季でいいのだろう。
粗末な庵に丸剥ぎにしたにんにくの匂いもここでは藤袴だという、一種の貧乏自慢か。
にんにくの匂いというと『源氏物語』帚木巻の藤式部の丞の話も思い浮かぶ。あれは紫式部自身の自虐ネタか。
貞徳自注には、
「秋山柴にて木の字を付、丸はぎはにんにくの実の皮をとるゆゑなり。」
とある。
三十四句目。
秋山のしばにんにくの実の匂い
いろ色鳥の汁のすひくち 貞徳
「すひくち」は汁物にもちいる薬味のことで、コトバンクの「世界大百科事典内の吸(い)口の言及」には、
「…ショウガ,ワサビ,からし,サンショウ,コショウ,ユズ,ネギ,アサツキ,ミツバ,ミョウガ,タデ,シソ,セリ,ウド,ダイコンおろし,ノリ,七味唐辛子などが多用される。汁物に浮かせるユズなどはふつう吸口(すいくち)と呼ぶが,古くは〈こうとう(鴨頭,香頭)〉と呼ばれた。青柚(あおゆ)の皮が汁に浮いているさまが,水中の鴨(かも)の頭のように見えるためだと,《貞丈雑記》は記している。…」
とある。野鳥の汁などは臭みが強いためにんにくを用いることもあったのだろう。
肉食だから草庵ではなく、武家の別邸だろうか。
貞徳自注には、
「いろとりは秋の季、すいひくちはにんにく。」
とある。『俳諧御傘』に「秋也。色々わたる小鳥をいふ」とある。
三十五句目。
いろ色鳥の汁のすひくち
下戸上戸日の暮よりも月見して 貞徳
秋が二句続いた所で月の定座になる。鳥の汁が出たところでお月見の宴となる。
貞徳自注に、
「日のくれは酉の刻也。」
とある。貞門ではこうした「いろいろ鳥の」と「酉の」を掛詞にするような緊密な付けが要求された。
談林なら単なる付け合いで良しとし、蕉門では匂いだけで良しと疎句付けへと流れていった。ただその後は疎句付けが行き過ぎて、かえって句をわかりにくくし、付いているか付いていないかもはや素人にはわからぬ世界になり、連句の衰退に繋がっていったのではないかと思う。近代に至っては単なる連想ゲームになった。
三十六句目。
下戸上戸日の暮よりも月見して
哥にはよらぬ人の貧福 貞徳
花見なら寺社などの花の下に貴賎群衆集まってというところだが、月見の宴は大体屋敷の中で行われるもので、金持ちには金持ちの集まりがあって貧乏人は貧乏人の集まりがあってではなかったかと思う。
そのなかで一流の大名でも歌の下手なのもいれば、貞徳門に集まる京都の庶民の中にも歌に秀でた者もいる、それが「哥にはよらぬ人の貧福」で、巷の門人達に胸を張っていいんだぞ、というメッセージではなかったかと思う。
貞徳自注に、
「世の諺に、貧福下戸上戸といひつづくるなり。」
とある。「貧福下戸上戸」は慣用句だったようだ。
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