昨日のことをもう少し詳しく言えば‥。
日本では軍国主義の終わったところから軍国主義との戦いが始まった。
この戦いはレーニン帝国主議論によって同時に資本主義との戦いでもあった。
幻だった八月革命は未来の社会主義革命を以てして完遂しなくてはならなかった。
戦中の鬼畜英米はそのまま反米闘争に引き継がれ、天皇の場所に憲法第九条が君臨し、日本国憲法は明治憲法と同様に不磨の大典として神聖不可侵なものに祭り上げられた。
彼等にとって戦争はまだ終っていない。
たとえ彼等が暴力革命を否定していても、世界中の反米的な独裁国家とテロ組織を支援してきた。
こうして上塗りされていった日本の「戦後思想」は、冷戦構造があったことと、戦後しばらくの間は軍国主義の時代を懐かしむ人たちもいたことから、ある程度のリアリティーを持って大衆も受け入れていた。それも七十年代前半をピークに、後は衰退の道をたどっていった。
しかし、こうした戦後思想はあたかも文化人であることの条件であるかのように、今日でも日本の知識人たちを支配し、マスコミにも大きな影響を与え続けている。
かつて満州で育ちの作家の安倍公房は「終わったところから始まる旅に終わりはない。」と言ったが、終わったところから始まっている戦いは終わる時を知らない。彼らの魂はいつ鎮まるのだろうか。
それでは「哥いづれ」の巻の続き。風流の道がせめてその一助になれば。
五十五句目。
治りかへる御代は一条
物着てならぬ座敷の床畳 貞徳
「物」は『連歌俳諧集』の注に「打物(刀・槍の類)の略。」とある。
「床畳」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、「床の間に敷く畳。また、ゆかに敷く畳。」とある。
床の間はウィキペディアに、
「元来、仏家より出たもので、押板と棚に仏像を置いていたと言われ、これが武家に伝わり仏画や仏具を置く床飾りが広まった。南北朝時代に付書院や違い棚とともに造られ始めた『押板(おしいた)』は、掛け軸をかける壁に置物や陶器などを展示する机を併合させたもので、その用途をそのままに、近世の茶室建築に造られた『上段』が床の間となった。床の間は近世初期の書院造、数寄屋風書院をもって完成とされる。」
とある。
この巻が巻かれたのは桂離宮でいえばまだ古書院の時代だった。数奇屋は数寄の道の部屋で茶室が元になっている。茶室では打物は嫌われた。
「物着てならぬ座敷」は茶室のことで、その床畳は穏やかに落ち着いたところで(治りかへる)、一畳(一条)というわけだが「御代」が解消されてない。まあ、それくらいはいいというところか。
貞徳自注には、
「床だたみは一帖なるべし。」
とある。
五十六句目。
物着てならぬ座敷の床畳
まはり花をば小勢にてさせ 貞徳
「まはり花(廻花)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 茶道の七事式の一つ。茶花の修練のために、主客ともに代わるがわる茶花を生ける式。
※虎明本狂言・真奪(室町末‐近世初)「此間は立花がはやって、各のまはり花をなさるるが」
とある。
お茶室の床の間では花を生ける。狭い茶室なのでそんな大勢では行わない。
この花は桜とは限らないが正花として扱われる。花の定座は式目にはないので、表の六句目で花を出してもかまわない。
この句に貞徳自注はない。
五十七句目。
まはり花をば小勢にてさせ
人のせな渦の霞る浪の舟 貞徳
前句の「まはり花」を回る浪の花として渦潮を付ける。
渦潮を見に行く船はそんなに多くの人は乗せられないのか、「人乗せな」といっても乗るのは小勢。
貞徳自注には、
「人のせなと云詞俳諧なり。まはるはうづなり。花は浪の花とつくる也。」
とある。
五十八句目。
人のせな渦の霞る浪の舟
松浦が事は長閑くもなし 貞徳
謡曲『松浦佐用姫』は大槻能楽堂のサイトの「あらすじ」のところに、
「旅僧が松浦潟に着くと、海士乙女が現れて佐用姫と狭手彦との物語を詳しく語る。 海士乙女は僧から袈裟を授かった礼に、狭手彦形見の鏡を見せると約束して姿を消す。 夜もすがら僧の夢の中に佐用姫の霊が現れる。約束の鏡を拝した僧は、そこに狭手彦の姿を見る。 佐用姫の霊は恋慕の執心を嘆き、懺悔に昔の有様―狭手彦との別れ、領巾を振って舟を見送った時のこと、形見の鏡を抱いて投身したこと―を見せる。」
とある。投身とは確かに長閑なことではない。
貞徳自注に、
「新曲の舞にかやうの言葉、心あるかとおぼゆ。」
とある。
五十九句目。
松浦が事は長閑くもなし
鰯とはいやしきかへ名のいかならむ 貞徳
貞徳自注に、
「松浦いわし。」
とある。松浦鰯はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 肥前国松浦地方でとれる鰯。塩漬として知られた。〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕」
とある。
『連歌俳諧集』の注は『和漢三才図会』鰯の条の「肥前国ノ松浦、丹後ノ由良ノ産、頭略大ニシテ扁ク、亦名ヲ得。」を引用している。
また、『連歌俳諧集』の注には「室町時代の宮中の女房詞に、鰯の替名を『むらさき』という。」とある。
上品な名を言わずに「いわし」と呼ぶのはいかがなものか、松浦鰯は長閑ではない、と付く。
六十句目。
鰯とはいやしきかへ名のいかならむ
節分の夜にまゐる宮方 貞徳
鰯といえば節分の夜に鰯の頭を柊の枝に刺して魔除けとする風習があった。
日の光今朝は鰯のかしらより 蕪村
の句は、一夜明けて日が刺すので立春の句となる。
節分の鰯に関しても、宮廷の人からすれば「鰯とはいやしきかへ名のいかならむ」ということになる。
貞徳自注に、
「鰯を柊にさす夜なり。宮中は詞つかひ風流なるもの也。」
とある。
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